以前にも、中原久経と中原経久の混乱(反転)は眼にしていたのだが、限られた資料だけだと思っていた。
ところが、デジタルの資料に中原経久が続々と登場してくると、書き間違いではなく、そちらが正しかったのだろうか?と不安になってくる。
吾妻鑑では「中原久経」で統一されている(確認済)が、下記の大日本人名辞典では、中原経久が先に近藤国平と登場し、院庁牒を賜わり大宰府へは中原久経となっている。
親子か、はたまた兄弟か、はたまた知人程度か…それとも同一人物か…
これだけたくさん出てくると、藤原邦通とともに中原経久が居たような気分になる。
二人が同時期に鎌倉幕府にやってきて活躍していたか、一人が久経と経久を使い分けていたのか、それとも書き間違えか…悩める。
近藤国平と共に院宣を賜り活動していたのが中原久経と吾妻鑑にあったためにそれを信じてはいたのだが、、、、不安がよぎる。
この人の諱が【経久】であり、系図には【経久】と書いたという可能性もあるかもしれない。
もしくは、経久と久経は兄弟という可能性もある。
そのために久経の系図が出てこないのだろうか?
しかし、そうであるならば、経久の註に源朝長と異父兄弟…などと記載があってもよいではないか。
*****memo*****
吾妻鑑 治承四年(1180年)7月
治承四年(1180)十月小十七日丙申。爲誅波多野右馬允義常。被遣軍士之處。義常聞此事。彼討手下河邊庄司行平等未到以前。於松田郷自殺。子息有常者在景義之許。遁此殃。義常姨母者中宮大夫進〔朝長〕母儀。〔典膳大夫久經爲子〕仍父義通就妹公之好。始候左典厩〔義朝〕之處。有不和之儀。去保元三年春之比。俄辞洛陽。居住波多野郷云々。
この部分の解釈が、どうしても朝長の母が、久経の子と為る…に読めてしまうが、久経が朝長の父とするとどう考えても1100年あたりに生まれた人物となり、そうすると1185年の御使の時には85歳あたりになってしまう。
そうではなく、
典膳大夫久經爲子 久経は子と為る(なる)…と読ませるのではないだろうか?
その方が、自然ではないだろうか?
もしくは、久経の息か甥か孫の経久が、久経となって活躍したかである。
*****
吾妻鑑は、誰かの日記や、いくつもの資料を見つつ書いたと思う。
その結果、中原久経で統一されたと思っている。
玉葉も久経である。
しかも、吾妻鑑の担当者(三善氏?)は、みな、中原久経の名やその顔をも知っていて中原久経にしたのではないか?
久経の親戚や友人も、また息や甥なども「吾妻鑑執筆者たち」の近くにいたかもしれない。
もしくは、時代も流れ…本人には会った事もなかったが、経久と久経は同一人物であろうと見当を付けて統一したとか?
この問いには、何か新たな情報が発見されない限り謎のまま…である。
近江国御家人の経久が私の想定している1175年よりも30年ほど前に生まれていたとし、1145年に孫が生まれるのが40年後と想定し、孫の時代に唐崎で合戦はあっただろうか。(孫の秀重は唐崎合戦で討死と記載がある)
1191年に佐々木定綱・息の定重が延暦寺の神鏡を壊してしまい…という事件があった。もしもそれが該当するならば、孫は6歳くらいとなってしまう。
それではあまりにも適合しないので、今度は逆算してみよう。
1191年に中原秀重20歳として、1171年に生まれた人物の祖父の年代
となると、1130年代に生まれて、、、是では源朝長・中原久経の母親の年代周辺と同様になってしまう。
この場合は冨城氏ではなく、河守荘地頭でもなく、沙弥蓮忍でもないことになる。
今までの仮想が、ガラガラガラ・・・と壊れていく。
更に和歌山の系図との整合性が危ぶまれてしまう。
…と不安材料ばかりが目についた。
が、
吾妻鑑の写本の典膳大夫久経を見て、やはり経久は印字のミスかもしれないと思い返している所である。
先ほども書いたが、あの【玉葉】にも久経となっていた。
*****
私は中原久経と中原経久の系が繋がっていると思っているが、真実はこの先何か奇跡が起こらない限りわからないような気もする。
近江国御家人井口中原系図の経久は、経行の系につながっているのだが、どうしても成行の系とどこかで婚姻関係か養子関係かあったものと思われてならない。(経行と成行は兄弟である。)
その謎の糸口が大江久兼と近江国御家人の系図の中原景康ではないか?思うのだ。。
なぜ、沙弥蓮忍の寄進の文書に「久兼」の文字があったのか。
その中原景康は中原有安の養子でもあり、有安は清原頼業の弟と言われている。(有安は中原師元の養子となり中原姓を、その跡は出納の平田家となっていく。)
景康は大江久兼の孫久康を養子として迎える。
つまり、中原有安=中原景康=大江久兼の孫久康
中原師元=中原有安(実・清原氏)=景康
大江久兼ー久家ー久康
中原景真ー中原景康=大江久康
領主久兼の河守荘の山林を観音寺に寄進…地頭沙弥蓮忍が事務処理?をしている。
では、なぜ沙弥蓮忍が河守荘の地頭となったのか…大江久兼の周辺に居た沙弥蓮忍に白羽の矢が立ったのは、久兼の相続者が此の者がよいと藤原頼経の近臣に奏上したのではないだろうか。久兼はすでに他界していたと思う。
因みに私は、河守荘の蓮忍と冨城中太蓮忍(息か甥か孫の常忍同行)も同一人物とする。
その常忍の母は頼経の乳母であったこともある女性と言われている。
沙弥蓮忍の妻ヵ妹ヵ娘が乳母であった可能性もあるかもしれない、と思う。
その辺りも、今まで調べた限りでは曖昧模糊のままである。
なかなかはっきりとしないままだが、どなたか興味を持った方が、この先を進めてくれるだろう!と期待している。
*****
この春から「先祖の歴史の世界」から少しずつ「音楽の世界」にシフトしていきたいと思い、ピアノを防音の効いた部屋に移し、楽器の状態もかなり悪いためメンテナンスをし、・・・と思っております。
本当なら好きな古い音色の輸入ピアノにしたいのです。
しかしそれは高価のため「上手になった時の目標」に定め(要はニンジン)
とりあえず初心に帰ってやさしい曲から総復習!!としたいです。
三日坊主に終わらないように!
上手くなった際には、動画にもアップしたいなぁと夢見ています。