間違いであったかもしれない。
上記の意味は清兼ー公康となり、その公康の息に実清という意味かもしれない。
とすれば、こちらも保元の乱の時の右馬権頭実清には当てはまらないかもしれない。
うーーーむ。私には難問すぎてわからない。
上の秋田県「佐藤一族」の系譜と伝承口碑によると『公康ー実清』となっている。
また、同じ本の中にある下の系図では、公康から後藤氏の基清につながる。
以前挙げた下の系図とも違う。
一つの可能性だが、
源朝長の母(藤原清兼の娘)の兄弟である「公康」は年が10歳以上離れている兄であったとすると、実清が保元の乱の際に20歳以上であったと思う。
1120年位に朝長の母が生まれ、1110年に公康が生まれたその息実清が1130年生まれとすると26歳のときに保元の乱となる。
保元の乱で配流となっていた実清の息をもしも預かったとしても、朝長の母はまだ36歳であり、朝長も13歳。朝長は三年後の1159年には「中宮少進 」となっている。1160年17歳で歿してしまう。
藤原清兼ー公康ー実清ー賢清‥‥となるのかもしれない。
まだまだ、調べていく必要があると思う。
コメント、ありがとうございます!
光る君へ、予想以上におもしろいですね。
史実とは違うのかもしれませんが、毎回ええっ?と思う展開があり、楽しんでおります。
さて、九里太郎経久が、片岡経久ではないことが分かり、出直しているのです。
が、再考してもいます。
賢清という名も、もしかすると僧名の賢清の方とは別人の「かたきよ」さんかも知れません。
その周辺に中原久経が居たと思うのですが、何も見つかっておりません。
すぐ終わる!と思っていたルーツ探しですが、こうして10年近くになっております。
これから、源氏オタクの本領を発揮しますので、見てね☺️