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鹿嶋宮 大中臣流片岡氏(2)大中臣公利が片岡氏の祖となる。  鹿島神社領【橘郷】(常陸国)

2024-04-10 | 片岡氏
鹿嶋神社の大中臣公利が大中臣系の片岡氏の祖と言われている。
系図の中には片岡経春も、為春も見えてはこない。
親鸞の弟子となった信親信広(順信)がみえる。

↑のページには、上野国の片岡郡にいた源親綱と片岡信親が兄弟であることが示唆されている。
これは、重要な鍵となりそう。

乗念房は如来寺の略縁起によると上野国片岡郡の城主片岡尾張守源九郎親綱という豪勇無双の武人で兄信親が朝廷の命によって鹿島神宮の大宮司となったため、弟の親綱が片岡の家名を継いだと伝えています。乗念(親綱)の兄、片岡信親は鹿島神宮の宮司でありましたが親鸞聖人の弟子となり、聖人より順信と法名を授っています。



鹿島神社領に【橘郷】があったようで、これは海上郡の東荘(橘庄)とは別の場所と思われるため、私の勘違いがあったかもしれない。
行方郡 橘郷 古くは立花と書かれた。

コトバンクには《「和名抄」に「立花」と記され、訓を欠く。承安四年(一一七四)一二月日の常陸国庁宣(鹿島神宮文書)、治承四年(一一八〇)七月一八日の常陸国留守所下文(同文書)、「吾妻鏡」養和元年(一一八一)一〇月一二日条、元暦元年(一一八四)一二月二五日の源頼朝下文(鹿島神宮文書)、同二年八月二一日の源頼朝下文(同文書)に「橘郷」とみえる(行方郡玉造町の→羽生村)。 》とある。


鹿嶋の歴史 さん ページより

…(下妻)広幹も橘郷を含む南郡(小美玉市から行方市・かすみがうら市の北部)の領地を没収され、広幹に代わって支配したのが惣地頭(そうじとう)の下河辺政義(行平の弟)です。下河辺氏はもともと下総国下河辺荘(古河市から春日部市一帯)を拠点とする小山氏の一族で、藤原氏系の武士です。その領主交替の影響は、橘郷を社領としていた鹿島神宮にも及びました。

元暦(げんりゃく)元年(1184)、鹿島神宮の大祢宜(おおねぎ)(神職の職名のひとつ)・中臣親広と政義が土地を巡り対立、翌二年、頼朝は詮議(せんぎ)のため、親広と政義を鎌倉に召喚してそれぞれの言い分を詰問しました。親広は、「政義が郷内の百姓妻子を束縛し、さらに神宮の神事を妨害した」と頼朝に訴え、一方の政義は、「それらは家来の勝手な振る舞いである」と答えました。結果は親広の勝訴。頼朝にとって政義は庇護(ひご)すべき御家人でしたが、政義よりも鹿島神宮の親広の言い分を認めたのでした。
詮議のあと、政義はその場に伏したままでいました。頼朝が理由を尋ねると、政義は「鹿島神宮は武士の守護神であり、とても逆らうことはできない」と答えたといいます。これは当時の鹿島神宮に対する武士の率直な気持ちの表れでしょう。頼朝が崇敬するのと同様、御家人たちも鹿島神宮を厚く信仰していました。しかし、この後も鹿島神宮と地頭である武士との争いは続きました。



立花郷(周辺)歴史 さん ぺーじより



立花地方は、古代から中世には橘郷と呼ばれ12世紀中ごろには源義家の子孫が進出していましたが、源頼朝が鹿島神宮へ寄進した関係から鹿島神官系の大禰宜中臣氏も橘郷へ進出するようになり鎌倉時代まで抗争が続きました。大禰宜中臣氏は、羽生村、八木蒔村そして倉員(倉数)村などの新村を開いていきました。橘郷南東部地区には、若舎人氏や箱根氏などの小領主が勢力を拡げていました。・・・


羽生村(コトバンク)
霞ヶ浦沿岸にあり、北は沖洲村、東は捻木村。沖洲村と同じく古代は「和名抄」にいう茨城郡立花郷に属したとされる(常陸誌料郡郷考)。橘郷は承安四年(一一七四)一二月日の常陸国庁宣(鹿島神宮文書)に「可令鹿島社神領橘郷事」とあり、国司高階経仲は、鹿島神宮の日次御供の不足を補うため橘郷の官物・雑役等を免除し、鹿島神宮大禰宜中臣則親に知行させた。橘郷は翌安元元年(一一七五)に南郡郡司下妻広幹の乱妨を受け、元暦二年(一一八五)八月二一日には、志田義広の乱で広幹に代わった南郡惣地頭下河辺政義が郷内百姓妻子等に地頭の支配に服すとの起請文を書かせた(「源頼朝下文」同文書)。建仁二年(一二〇二)には国井政景が当郷地頭に補任され、預所である中臣政親との間に両者の権利の範囲をめぐって相論が起こり、元久二年(一二〇五)八月二三日に政景の地頭職は停止され、代わって政親が地頭職を兼ねた(同文書など)。

*****

上記の【国井氏】とは・・・ 余呉?さんの頁では以下のようにある。
950年、源頼信の5男義政がこの地に安川城を築き、国井五郎源義政と名乗るようになったのが城の始まりである。義政は常陸源氏の祖であり、子孫は国井氏を名乗るようになった。


*****

行方の片岡氏との伝承があるため、橘郷 との関りがあったであろうと想像する。
中原経任が、橘次経任となったきっかけが此の橘郷であったという事ならうれしいのだが…

さて、以前佐貫城のことに関して書いた記憶がある。
片岡氏が居城していたそうなのだ。

その様子が記述されているのが以下である。

地図を見ると、現在は海の中になるそうなのだが、先端に佐貫城があったと思われる。(記述はよくわからなかったため、だいたいです)



        👆この先端か?


行方周辺



 此の羽生付近に【橘郷】があったかと思われる。

上記の乗念が、上野国の片岡氏であったならば、大中臣氏の片岡氏は秀郷流片岡氏でもあった事になる。

下河辺政義も秀郷流のため、同族である。
叔母は寒河尼であり、宇都宮氏とも近い関係。

この辺りに進出し、大中臣氏の中に入り、鹿嶋宮の中臣氏と対立していたのではないだろうか。

しかし、片岡経春の通字である「経」「常」「春」はどこにも見当たらず、この時代の大中臣の片岡氏は「親」「信」である。

大中臣の片岡氏と上野国の片岡氏、その関係を調べていきたいと思う。



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