欽明天皇と任那 wikipedia「任那」より
欽明天皇からはおびただしく記事が増え、ほぼ毎年任那関係の事件が見える。欽明2年(541年)4月の条に「任那」に「日本府」を合わせた「任那日本府」が現れ、同年秋7月の条には「安羅日本府」も見える。同天皇23年(562年)の条には、加羅国(から)、安羅国(あら)、斯二岐国(しにき)、多羅国(たら)、率麻国(そつま)、古嵯国(こさ)、子他国(こた)、散半下国(さんはんげ)、乞飡国(こつさん、さんは、にすいに食)、稔礼国(にむれ)の十国の総称を任那と言う、とある。
この欽明天皇時代以前から任那周辺とはつながりがあり、行き来していたと思われるが、欽明天皇時代に問題が起こり、任那(加羅他)の存続、百済の存続が、危うくなってきているようだ。
そこで、百済の聖名王によると佐魯麻都が百済の内情を新羅に伝えるスパイだ。…ということなのだ。
佐魯麻都にも言い分はあり、東進する百済から安羅を守るために新羅との連携をするために取った行動ということである。
さて、欽明天皇は在位539‐571年とあり、すでに一度任那は滅亡しているようで、その後百済と手を結び任那再興に着手しようとしていたのかもしれない。その辺りを調べてみようと思う。
ジャパンナレッジを読むと、
「五六二年、「任那十国」が新羅に滅ぼされるが、これは大加羅の滅亡をさしている。」とある。
(562年は欽明天皇在位中)
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1934
また、下記のような記述もある。
朝鮮古代の国名。〈にんな〉ともいう。532年に滅亡した金海加羅国の別名であるが,562年までつづいた加羅諸国を指すこともある。(これは欽明天皇の在位以前で、宣化天皇在位中となる。)
任那は《日本書紀》など日本の史料と〈広開土王碑〉や《三国史記》など朝鮮の史料とでは,使用頻度,読み方,領域などに,相違がみられる。日本では任那の名称を多用し,これをミマナとよみ,洛東江流域の加羅諸国やときには蟾津(せんしん)江流域の諸国まで含む広義の任那と,金海加羅国のみをさす狭義の任那との二様に使用している。朝鮮の古代史料には任那の名称は,わずか3例しかみられない。これをニムナとよみ,金海加羅国のみをさしている。ミマナのよみは,ニムナの転訛したものである。ニムナのよみは金海加羅国の始祖王后の許黄玉が来臨した聖地主浦の古訓に由来している。日本で広義に任那を使用したことは,韓(から)や唐(から)の場合と同様に,もっとも関係の深かった任那の国名を,加羅諸国などに拡大使用したためである。
→加羅 →金海加羅
金海加羅国とは金官加羅国と読み替えて良いようである。