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武寧王の周辺 倭国の時代(岡田英弘著作)から

2023-01-14 | 古代からのつながり

1月12日の記事に【質】のことを書いたが、事態はもっと重かったことが、岡田英弘著作『倭国の時代』によりわかってきた。

武寧王の養父であった昆支(こんき)。

wikipediaとは違う部分が多いので、ココに本より関係部分を書いて留めて置こうと思う。

 

『四七二年に百済王余慶(蓋鹵王)が北魏に送った手紙によると、北魏が四三六年に遼西の後燕王国を滅ぼし、最後の燕王馮弘(ふうこう)が高句麗に亡命して殺されてから、高句麗は南進を再開し、そのため三十余年間というもの、百済は連年の戦争に疲れ切っていた。

 だから百済は、三六九年以来の倭国との同盟を強化する必要があった。「日本書紀」の「雄略天皇紀」によると、百済の蓋鹵王は四六一年、弟の昆支を妊娠していた自分の妻と結婚させ、ともに日本の天皇のもとへ送った。その途中、筑紫の各羅(かから)島で生まれた男の児に島君という名をつけて、国に送り返した。それが武寧王である。昆支は日本に滞在して、五人の子どもが生まれた、という。

 この話の出典は、「百済新撰」という書物だが、武寧王の誕生は一年早すぎるようである。公州宋山里で一九七一年に発見された武寧王陵の墓誌銘には「寧東大将軍百済斯麻王」は、癸卯の年の五月七日に六十二歳で死んだとある。癸卯は五二三年だから、この年から数えて六十二年前は、四六二年であって…(略)

 いずれにせよ、王弟ばかりか王妃まで外国に人質として送るというのは、まことに容易ならぬことで、百済の苦境のほどがうかがわれるし、また百済が倭国に求めたものが、単なる友好関係以上の何かであったことは確かである。」

 任那同盟

 それが何であったかは、間もなく明らかになる。「日本書紀」の「雄略天皇紀」に引用された「百済記」によると、四七五年の冬、高句麗の大軍が、広州(クワンジュ)にあった百済王都慰礼城を攻め落とし、蓋鹵王・王后・皇子らは全員、敵の手に没した、という。…

 

*****

 

此処で、私が付け加えたい情報がある。(あくまでもそうかもしれない情報)

昆支の妻は倭人であった可能性が高いこと。

それにしても王一族が高句麗に殺されてしまったとのことで、その差し迫った状況が目に見える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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