九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

九里をまとめてみよう~!

2016-05-01 | 九里【只今の状況・まとめ】

以前にもお話したかもしれませんが、

【九里】の初まりは、1200年代になると思われる【御家人井口中原系図】です。

其の【九里の祖】一代前の兄弟。兄・中原景経は判官を広橋経光に推薦されている文書が残っており(1244年)、その後富永庄・鐘の銘に名前が残っております。(富永荘 御鎮守新日吉神社 文永五年(1268年))

弟・経任は橘氏に改めており、文書は見つかっておりません。

経任~九里の祖=経久(蓮忍入道)~経季(右馬允)・経重(左衛門)~秀重(唐崎合戦討死)~秀宅(弥三郎)・乗如(般童寺僧)~秀方(熊野住)

この、祖となる経久=蓮忍入道ですが、蓮忍であり経久である人物が、同時代におります。
深江文書には、その翌年の宝治元年(1247)に六月五日付けの高来郡東郷内深江浦地頭職の譲状には、先祖相伝の所領を深江入道蓮忍に譲り渡す者として左衛門尉平朝澄と記されています。

平朝澄(有馬・有間)~深江蓮忍(=肥前左衛門経久)~蓮仏(1254年)



また、弘安8年(1285年)
但馬国大田文に「菅庄41丁7反300分(八幡宮領)」とあり・北方地頭肥前左衛門太郎経久、南方地頭多々良岐孫太郎長基 (但馬国大田文)
但馬国の事ですが、そのように書かれてあり、この人物が肥前の深江になっていた蓮忍ではと思っております。

深江という土地に、どこからか地頭として入った人物と思われます。
そして蓮仏に1254年に家督を譲ったあとは、肥前を離れているかもしれません。

次に文書に見えるのは、1427年源員定が九里員定でなないかと学者さんの意見があり、私もそのように思っております。
源員定の仕事と九里の仕事(街道九里半と保などの商業管理)が同じためそのように判断したのだと思います。
この員定は、じつは賀茂員定(丹後守)の80歳のころに出したコメントが文書になったのではないかと思います。

賀茂の系図では、今の所【員定】は見つかっておりませんが、賀茂忠高という人物が【佐々木宮ノモノ】と書かれて系図の中にいるため遠い話ではなく、可能性はあると思っております。

次に、本日見つけたばかりの下の文書
(宝徳年間頃)3月5日(14510030050)
【文書名】 大和教賢書状(続紙)
【底本名】 教王護国寺文書(62620105)
上の中に、九里殿と書かれております。これは三村荘という荘園と東寺とお米の関係文書と思われます。次の年に治任がいて同じようなことでの文書があるので治任のことかもしれません。


九里治任・九里次郎左衛門・久里次郎左衛門入道(伊庭氏の被官)・九里五郎四郎・九里宮内左衛門尉種信(1499年)・九里員秀・
九里吉忠・九里甚左衛門・九里久郎右衛門正・川端惣代御下司九里善右衛門・九里源右衛門・川端村年寄 九里浅右衛門・九里隆員

川端村は下嵯峨の村で、天龍寺の文書です。

もう一つ、本日見つけた情報
北条時宗の甥頼助(東大寺別当)と同じ文書の中に六角佐々木奉行人として九里三郎貞信の名前も見えます。1476年竹生嶋文書です。

丁度、先ほどの平朝澄のところで、九里と北条氏との関係を探っているところであるため、嬉しい情報です。


あとは、戦国まっただ中の伊賀守・備前守・等々で、信長に誅された九里三郎左衛門を最後に九里の黄金時代は終わり、人数がぐっと減り、江戸時代を過ごしているような感じです。
幾多の戦い・火事で、文書・系図等焼けてしまったと思われます。

次の記事には、蓮忍という名前の人たちを集合させて、どの人が九里とあてはまるのかを考えていきます。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« あられが去り、夕刻の櫻~北... | トップ | 1400年代の九里。新たな... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

九里【只今の状況・まとめ】」カテゴリの最新記事