九里起源の考察
『田舎の2000年歴史ロマン』のwebページを拝見し、触発され、古代の九里に関してのイメージも湧き、ここに一文を残しておくことにした。
http://shokokuyugyou.com/inaka2000/inaka2000_23.html
【佐味】という一族
富山朝日町に佐味神社という豊城入彦命由来の神社があるそうだ。
その付近に九里氏が古より住んでいる。
近江国伊香郡余呉にも佐味神社があり、江州中原氏が住んでいた場所である。
こちらも同じく豊城入彦命由来の神社である。
この符号はなんであろうか?
共通点は、中原氏、または賀茂氏(秦氏)であると思う。(私見)
その解明の前に【佐味族】のことを私なりに調べてみたので記述したい。
「謎の古代豪族 葛城氏」平林章仁 祥伝社
「古代豪族の謎」歴史読本編集部 新人物文庫
「記・紀」「大和志」の片塩の都・浮孔の宮考 田中昭三 近代文芸社 等より
神功(じんぐう)皇后(仲哀天皇の皇后で応神天皇の母)五年
葛城襲津彦(そつひこ)は新羅の人質の本国送還に付き添って渡海した。対馬の錆の海の水門(みなと)に停泊した際に、新羅の使者は藁人形で欺いて人質を新羅に逃亡させた。
事の仔細を知った襲津彦は新羅の使者を焼き殺し、新羅の蹈鞴津(たたらつ)=釜山の南に停泊し、草羅城を陥れて帰国した。
この時の俘子(とりこ)らは、今の桑原・佐糜(さび)・高宮・忍海の四邑の漢人の始祖である。
↑の佐糜が佐味のことである。
佐糜は現在の奈良県御所市東佐味・西佐味あたりに比定できよう。
いずれも葛城氏の本拠である大和国葛城上郡内に求められる。
忍海は忍海郡にあたるが、ここも葛城氏の本拠に含めてよい。
この四邑の漢人らは、葛城氏の滅亡後は東漢(やまとのあや)氏の統治下に置かれた。
で記事の中のサミの場所ですけど御所が出たんですね。先ほどとっても尊敬する方のプログにお返事があり確認するとなんと膳所と御所で所をゼもしくはセと音のする場所は少ないらしいです。個人的には濁点のが古いように思うので大津の膳所から御所の移動ってイメージは持っております。
もちろん個人的妄想だと同じ民族ならありそうですよねって。御所は方が好きなので接点はあるんですけど地形や地図できちんと把握出来ていないので川は多分関係してそうですけど地形的な側面で調べてみたいと思います。
でもう一つ何だっけ?そう忍海はこの前奈良に行った時も電車で通ったんですけど以前から気になる地でして。そこがまた出てくるのは、気になる所やワードがとても共通するこちらのプログでも更に気になりましたよ。海ですからお水関係ですよね。
これで別件で二回も催促されているようなので御所について調べてみます。
ランキングでたまたま気になった記事でしたけど違う方も気になっていると面白いですよね。4092
九里について色んな方面から調べられててビックリしました。
歴史に詳しくはないですが、朝日町の九里の関係なので、気になってコメントしました。
朝日町の九里は、家は色々とありますが、宮司の九里についてなら、それに関係があるので、言い伝えでの事だけですが、解ります。
こちらの九里の祖先は、北陸宮と一緒にやって来たということは代々伝え聞いています。
詳しくはこれ以上書けませんが、一番詳しいのは、現在も跡を継いでおられる人だと思います。私も連なる者として口頭で伝え聞いただけですので、それ以上は詳しくはありませんが、ルーツを知るのはとても感慨深く思います。
コメントありがとうございます。
九里愛雄様のご関係の方でしょうか?
国立国会図書館のデジタルで、その名を知りまして、その本を部分的にですが読みました。
今、再度読んでみたくなりました!
https://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?featureCode=all&searchWord=%E4%B9%9D%E9%87%8C%E6%84%9B%E9%9B%84&viewRestricted=0
私の祖母の兄九里誠一郎が、北海道釧路から富山薬科大学(その頃は違う名前だったような気が…薬科専門学校?)に行ったのも、もしかするとそこに親戚がいたからかもしれない!と思うのです。
その頃、本州の大学に行くという事は大変な事だったようです。(大正時代かと思います。)
富山の九里様にお世話になっていたかもしれません!(ぺこり)
是非、また遊びにいらしてください~♪
心よりお待ち申し上げます。
若しお嫌でなければですが、家紋と何宗かを教えていただけませんか?
繋がりが気になるものですから。
因みに我が家は他の九里家とは違うと思うのですが、榧之内十文字紋・法華宗
和歌山の九里様は隅切り橘紋・浄土真宗
加賀藩の九里様は七宝十字ノ紋と宗教は不明
長岡藩の九里様は五瓜唐花と宗教は不明
です。
教えていただけますと、ありがたいです。