大中臣輔親~輔経~親定~親仲
この大中臣輔親の娘が三善(日野)章経の母となり、大中臣親仲の母が「三善章経の娘」であった関係だ。ということは、親定の妻が三善章経の娘である。現代の感覚からするとやけに近いが、それだけ強く結びつく意味があったのだろうと思う。
そして、この日野氏と大中臣氏の関係、三善氏と大中臣の関係、
日野有国~家業~章経 この章経が三善章経ということになるのでは、と思うが、他にも章経がいるかもしれないので、注意が必要だと思う。
この有国がどのような人物であったのかコトバンクからコピーしてみよう。
没年:寛弘8.7.11(1011.8.12)
生年:天慶6(943)
平安中期の官人。もとの名は在国。従二位,豊前守輔道と近江守源守俊(一説に済俊)の娘の子。正暦1(990)年蔵人頭,次いで従三位(非参議)となる。翌年に秦有時殺害事件に連座して官位を奪われたが1年後に復位。大宰大弐を経て長保3(1001)年,参議となり修理大夫を兼ねた。摂政藤原兼家により平惟仲と共に「左右の眼」と重んじられた。摂関を子の誰に譲るか兼家から相談を受け,道兼を推したことで関白となった道隆(惟仲が推薦)に冷遇されたが,道長時代に復権した。妻橘徳子(橘三位)は一条天皇の乳母を務め,その皇子後一条天皇の乳付もした。博学で漢詩をよくし『勘解由相公集』2巻を著し,『本朝麗藻』などに漢詩を多く残す。応天門の変(866)で失脚した伴善男に容貌が似るところからその後身との説があった。
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有国の妻が橘徳子であったこと。
また、大中臣親隆の母(親仲妻)が橘宗季であったこと、その親隆の妻は卜部であったことも知り、日野氏のことが再び気になってきた。
日野氏(コトバンク)
公家(くげ)。藤原北家(ほっけ)流。右大臣内麿(うちまろ)の長子真夏より出る。その孫家宗(いえむね)が山城国(やましろのくに)宇治郡日野(京都市伏見(ふしみ)区)に法界寺(ほうかいじ)を創立、さらにそれから5世後の資業(すけなり)が11世紀なかばに法界寺薬師堂を建立し、以後日野氏を称する。儒学と文章を家道として朝廷に仕え、大学頭(だいがくのかみ)に任ぜられることが多かった。鎌倉末から南北朝内乱期にかけては、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の討幕計画に参画し、のちに処刑された資朝(すけとも)、俊基(としもと)がよく知られているが、他方で北朝に仕え室町幕府の創設に尽力した者もいる。室町時代には時光(ときみつ)の女(むすめ)業子(なりこ)が足利義満(あしかがよしみつ)に嫁いで以来、代々足利将軍家と縁戚(えんせき)を結ぶようになり大きな権勢を振るうようになる。「万人恐怖」といわれた足利義教(よしのり)の時代には、その室日野重子(しげこ)の長男出産を祝って多くの公家や僧侶(そうりょ)が兄日野義資(よしすけ)のもとを訪れたが、当時義資は義教の勘気にふれ謹慎中であったため、彼を訪れた60人の公家や僧がみな処分されるという事件があった。また1443年(嘉吉3)の南朝勢力による内裏(だいり)襲撃では、それに内応したとして日野有光(ありみつ)が滅ぼされている。さらに応仁(おうにん)の乱(1467~77)前後の激動する政局のなかで、足利義政(よしまさ)室日野富子(とみこ)と兄勝光(かつみつ)の専横ぶりは、多くの史料の物語るところである。江戸時代には家禄(かろく)1153石を得、明治時代に至り伯爵を授けられた。その支族には、裏松(うらまつ)、四辻(よつつじ)、烏丸(からすまる)、柳原(やなぎはら)、竹屋(たけのや)、日野西(ひのにし)、外山(とやま)、豊岡(とよおか)、三室戸(みむろど)、北小路(きたのこうじ)、広橋(ひろはし)、勘解由小路(かげゆのこうじ)などがある。[酒井紀美]
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その日野氏が大中臣氏・三善氏・橘氏・卜部氏とつながっていることは、清原氏・中原氏・大江氏とも繋がっていたのではないだろうか?
そのために、九里(久能利)が能登国で日野氏の家臣となることに繋がっていくのかもしれない。
少し、見えてきたような気がする。