九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

富木常忍の最初の妻は太田(大田)乗明の姉であった。では、その太田氏とは?

2019-12-14 | 三善氏

富木常忍は、太田乗明の姉を妻としていたそうである。
さらに、その縁でなのか、太田氏と同じ「中山法華経寺」の若宮内の土地を得たともいわれているそうである。
そこがのちに「中山法華経寺」すぐ近くの「正中山奥之院」となる。(もとは同じ敷地内と思われる。)



この乗明が誰のことなのかをずっと探しているわけなのだ。
いまは4つの候補が挙がっている。

①三善康連の息(備後国世羅 太田庄)
②法橋太田昌明の裔(但馬国出石、大田庄)(石見国 銀山 大田?)
③越中国太田保(新川周辺)の大田氏(宮道氏裔)
④小山氏となる太田氏(行尊)
===*===

今までは「善信」三善康信の周辺と思い年代的に「三善太田康連」の息の一人と思って探してきた。

康宗と康有が明確にわかっているが、他にもいたはず!
康有の息は時連で、六角時信の娘は太田時連に嫁いでいるので、中原の祖を持ち、六角氏の家臣となっていた九里氏に近い。

六角時信の兄弟
兄弟 頼明、宗信、成綱、宗綱、時信、
    太田時連室、中山家親室(中山家五代目当主)

::

他に今日「康経」という人物を見つけた。1243年の記載がある。舎兄康宗とあるので、弟。

康連の息:太田康宗(康政)康有 康経   
康継の息:康遠 康綱

これで、康「明」とあれば、この人物が乗明ではないか…となるのだが、いまだ見つかってはいない。

康経は康常とも書けるので、その常を「じょう」と読み、「乗」に変えたのかもしれない。(想像)
因みに富木常忍(つねのぶ・じょうにん)は富城経〇(宣・延・信??)であったと想像している。


三善康経は民部三郎とある





===*===

1250年(建長二年)越中大田次郎左衛門尉と記載がある。

以下は、web情報からの部分コピーである。「日蓮大聖人と私」さんからである。
http://aoshiro634.blog.fc2.com/blog-category-255.html

康連の子息にあたる三善康宗(やすむね)は太田太郎兵衛尉(ひょうえのじょう)とも太田民部大夫とも称しており、三善康有(やすあり)は大田七郎と名乗っている。

この他に大田(太田)姓を名乗っているもののなかで、大聖人とほぼ同年代に生きた人物を探ってみると、大田四郎左衛門尉、大田次郎、などの名が見える。
仮にこの二人を康連の他の子息と考えると、太郎(康宗)、次郎、四郎、七郎(康有)となる。
大田乗明を三善康連の子息とする説では多くが「大田五郎左衛門」としていて、康連の五番目の子として位置づけている。
康宗(太田太郎)も康有(大田七郎)もともに、問注所執事となっているが、大田乗明の立場に関しては、確たる資料はない。

大田乗明の所領であるが、曾谷入道殿許御書で「而(しか)るに風聞(ふうぶん)の如くんば貴辺並びに大田金吾殿・越中の御所領の内並びに近辺の寺寺に数多(あまた)の聖教(しょうぎょう)あり等云云、両人共に大檀那為(な)り所願を成ぜしめたまえ」(一〇三八㌻)とあるところからも明白なように、曾谷教信と大田乗明は越中(現在の富山県)に所領があったことが分かる。

出典『日蓮大聖人御書講義』第十八巻上

===*===

これは昨夜見つけたのだが、

もう一人、宇治川で亡くなっている(1221年)善右衛門太郎(三善康知)を見つけた。

http://www.town.kamisato.saitama.jp/1309.htm


三善康知は、康朝と書かれているものもある。
しかし乗明は1222年生まれとあるので、当てはまらない。
年代的には乗明の叔父や年上の従兄弟にあたるだろうか。

===*===

越中国太田保
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/c2980c946d82d52961226a3bead7895d

http://www.seiryu.ne.jp/~ago-hida/root_of_ago/21_yurai.htm


他に、有力な太田氏を見つけたかもしれない。
というのも、「明」が付いているからであるのだが‥‥

これよりさきの86年源平合戦に功のあった法橋昌明は,出石郡太田荘を恩給され太田を名のるようになった。 

1221年(承久3)後鳥羽上皇の討幕の召集に応じなかった太田昌明は,承久の乱後但馬守護になり,京方についた前守護安達親長(あだちちかなが)にとってかわった。以後の但馬守護は太田氏一族の就任するところとなる。…

その太田荘から「太田」を名乗ったようである。


?-? 平安後期-鎌倉時代の僧。
はじめ延暦(えんりゃく)寺の僧。武芸にすぐれ,平家滅亡後は北条時政にしたがい京都の警備にあたる。のち,源行家追討,奥州藤原氏攻め,承久(じょうきゅう)の乱に活躍。法橋(ほっきょう)を称し,承久3年(1221)但馬(たじま)守護に任じられた。通称は常陸房(ひたちぼう)。

常陸国と関係があったのだろうか…

===*===

もうひとり、気になっているのが小山氏の祖である太田行尊
wikipediaによると

小山政光までの諸系譜

『尊卑分脈』 
兼光━頼行━太田行尊(行高)━行政━小山政光
なお『尊卑分脈』で武行は行尊の兄、行光は行政の弟とある。
また行範(行則)は頼行の弟の名としてみえる。
『群書類従』「小山系図」   
         
兼光━頼行━太田行尊━行政(宗行)━小山政光
『下野国誌』 
兼光━頼行━太田行尊━宗行━行政━行光━小山政光
「白河結城系図」
兼光━頼行━太田行隆━宗行━行政━行光━小山政光
(東大史料編纂所および『続群書類従』)
「藤姓小山氏系図」
兼光━頼行━武行━太田行尊━行政━行光━小山政光(東大史料編纂所)
「諸家系図纂 結城系図」   
         
兼光━行範━太田行高━宗行━行政━行光━小山政光(東大史料編纂所)
行範は頼行の弟、行高が伯父頼行の養子となって家を継ぐ
『続群書類従』第155巻 系図部50「小山系図」 
         
兼光━頼行━武行━太田行尊━行政━行光━小山政光
『続群書類従』第155巻 系図部50「結城系図」 
         
兼光━頼行━兼行━太田行隆(宗行)━行政━行光━小山政光
兼行の弟に武行を置く。
『続群書類従』第156巻 系図部51「小山結城系図」 
         
兼光━頼行━兼行━行則━行高━宗行━行政━行光━小山政光
『続群書類従』第156巻 系図部51「結城系図」   
         
兼光━行範━太田行高━宗行━行政━行光━小山政光
行範の兄に頼行を置く。
太田行高に伯父頼行の養子となって家を継ぐとの注あり。


太田行隆で調べると

龍蔵寺(白河市)概要: 龍蔵寺は福島県白河市字年貢町に境内を構えている真言宗豊山派の寺院です。龍蔵寺の創建は平安時代初期の万寿3年(1026)に当時の白河城の城主だった太田行隆が開創したと伝えられる古寺で、近世に入ると寺勢も増し、周辺地域の真言宗の中で触頭として統括する立場にありました。修行僧の学問所でもあった為、門末寺院は37カ寺を数え大きな影響力のある寺院で修験の袈裟頭も歴任しています。

上記の常陸房も、常陸の出身という事ならば、地理的には近いところにこの太田行隆(行尊)もいたという事になる。

この太田氏も三善氏も、出石と関係のある太田氏も、どれにも接点がありそう。
しかも頼政の系の太田氏、宮道氏の系の大田氏もいて、まあ判断ができない状態である。

同じ文官として…ならば、三善康経のことかもしれない。=太田康経。
https://www.library.pref.kagawa.lg.jp/know/local/local_2033-30

1245 寛元3 (乙巳)
 県内  3・- 僧隆胤,三野郡詫間荘内仁尾浦の覚城院の再建を図る(覚城院文書)
     4・17 妙法院門跡公性,香東郡野原・山田郡林荘などの寺領を弟子尊恵へ譲
         る(妙法院文書)
     この頃 山田郡坂下荘の領家と地頭争い,六波羅探題での裁判のため,地頭代
         の三善康経が上洛する(高野山文書)







コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 真野氏と三浦佐原氏、真野氏... | トップ | 三善康経=太田康経=太田乗... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (りひと)
2019-12-15 06:11:44
うわあ、凄い!
太田氏の女系は富木氏ならとても嬉しいですね。
市川別件で行って凄いお寺があるってたまたま寄ったんですけど納得しちゃいますよ。
で若宮という言葉にも相当こだわって神社系で探索してましたけど土地の名前で残っているのがまた個人的にやたら出会う一族の縁があるというのも不思議ですよ。
法華経寺については当時その場で地図で見つけて電源ある程度しか調べられずでお参りしたのが大昔。
で今この時点の知識で調べると納得する事が多いんですよね。日蓮さんも鬼子母神さんも北辰妙見神さんも。高崎の達磨寺に今年行ったのもなるほどって。

あと総門の掛川の太田氏ってのも調べてみます。掛川も結構行ったように思うんですよね。

市川は父が亡くなってからパソコンが壊れていなかったら今でも通っていたかも?という場所です。

でそこに富木氏の館ですかあ。色々思いますね。

そう江戸で富と関係ありそうな場所行ってきたばかりです。富と付く場所は特にこだわりありますね。

深川でない富賀岡八幡も関係してきそうに思うんですよね。そう最近フツさんの関係なのか川の千葉寄りばかり行く事になるんですけどその向こうが千葉なんですよね。川の渡しあたりもやたら出くわすワードで古代から両岸共に分断されているとは思えず色々考えております。

そうこのお寺行ったあと確か遺跡の場所まで歩いたような記憶あります。確か旧石器だったような?

富木さん太田さんの時代よりももっと古い時代で探索してみますね。

で太田稲荷って聞くと思い当たるお世話になっている場所が江戸に二つ。牛天神と御茶ノ水の線路際の木の太田稲荷さん。ならのいもあらいってのも昔から気になってます。それから去年なんでか暑い中行った大田区の太田神社で那須与一ですけど栃木の那須もやたら行った時期ありますね。

あと清正さんの場所もこの前行ったばかりです。

で富の関係者の慰霊にもなるとありがたいんですけどね。

千葉氏富木氏太田氏で三つ巴になるかな?
伊勢の猿田彦神社はこの時代どうだったでしょうね。
伊勢でも若宮探してますし、鎌倉でも。川崎の稲毛さんのあたりでも。

色々と人間に近いとしがらみがあると思うので私の妄想は旧石器くらいに飛んでおきます。
そうそう、エジプトと考古学で頭の上に載っていた物がなんだったか?ってネット記事ありましたけど黒い髪に良さそうな物みたいです。
あとたまたま不思議発見でヒッタイトってチャンネル動かしていたら出てきたんですけど鉄関連の技術はトルコより北東方面から南下してきたかも?と。その時は戦車や武器みたいですけど。日本の旧石器時代から動いてトルコ行っちゃったんじゃないかな?とも。
日本の研究家さんもいらっしゃるようですよ。仮説を覆される事にも柔軟なのも素敵でした。物がその時代の地層から出てきたらそれを受け容れるしかないんですもんね。

色々と歴史の新しい光が現れてくるといいですね。
富木さんのお屋敷の奥ノ院には多分行けてません。

鎌倉からの移築の愛染堂(行く所で愛染明王も結構出てきます)がなんか杉本寺のイメージもあり鎌倉との縁が行基の頃まであると面白くなりますよね。

富の関係のいい供養になりますように。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

三善氏」カテゴリの最新記事