九里 【九里】を探して三千里

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三善康持・政康・宗康 → 町野氏 

2019-09-19 | 三善氏

大中臣の息のかかった?それとも紀氏の息のかかった?日蓮と3人であったように思う。
富木常忍・曾谷教信・太田乗明

その太田(大田)乗明は三善氏と言われているが、
どの人が乗明になるのかは、いまだに解明されていないようである。

その三善氏から町野氏が出ていて、近江に居住していたことは分かっている。
近江国蒲生郡町野である。

三善康持・政康・宗康から始まる「町野氏」であると思う。
ところが、
康俊 - 康持 - 康永 - 問註所康行 … [問注所氏]
という系もある。

町野氏を継いだ政康・宗康は、康の字が後ろについているため、ひょっとすると養子であるかもしれない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BA%E9%87%8E%E6%B0%8F

鎌倉幕府問注所初代執事の三善康信の子孫が問注所執事や評定衆を務めていたが、町野氏の祖とされる孫の三善康持は宮騒動に連座して没落し、その子である政康・宗康の兄弟は六波羅探題の評定衆となった。

政康の系統は当主の町野康世らが六波羅探題と共に滅亡したが、宗康の系統は建武政権の雑訴決断所に出仕してその後室町幕府の評定衆となった

コトバンクの康持は、以下のようである。

鎌倉中期に幕府問注所執事や評定衆などを務めた実務家。本姓三善。三善康信の孫,康俊の子。町野民部大夫,加賀民部大夫などと称した。
暦仁1(1238)年評定衆に加えられ,また同年6月,父康俊が病で職を辞したあとを襲って問注所執事となり,寛元2(1244)年には備後守に任じられた。
しかし同4年5月,名越光時と前将軍藤原頼経の陰謀に加担したとして,同6月,問注所執事と評定衆の任を解かれ,問注所執事の職は同族の太田氏に相承されることとなった。<参考文献>竜粛『鎌倉時代』上
(新田一郎)

三善康連…太田氏(大田氏)
三善康持…町野氏
三善倫重…矢野氏

という事は、乗明は太田を名乗っていることから、町野氏の系ではないことになると思う。

三善康連は
父から備後国世羅郡太田荘の半分の地頭職を譲られ、同荘桑原方(現在の広島県世羅町)を所領する。とwikipediaにもあり、源頼政の所領であった世羅郡太田荘の地頭という所でつながりを感じる。

太田康連の息大田康有はコトバンクによると、

1228-1290 鎌倉時代の幕府官僚。
安貞2年生まれ。三善康連(やすつら)の7男。弘長(こうちょう)2年兄太田康宗(やすむね)の跡をつぎ問注所執事となり,評定衆もかね,在職は21年におよんだ。弘安(こうあん)3年美作守(みまさかのかみ)。公用日記「建治(けんじ)三年記」(「太田康有日記」)をのこしている。正応(しょうおう)3年5月11日死去。63歳。通称は七郎。法号は善有。

その兄 康政改め康宗は、上記の町野氏の名前が反転しているのだが…
1212-1265 鎌倉時代の幕府官僚。
建暦(けんりゃく)2年生まれ。三善康連(やすつら)の子。太田康有(やすあり)の兄。引付衆をへて,建長8年父の跡をつぎ問注所執事となる。正嘉(しょうか)2年には評定衆もかねたが,4年後の弘長(こうちょう)2年病気のため引退した。文永2年3月22日死去。54歳。初名は康政。

で、乗明は1222年生まれという。
この康宗と七男の康有の間にいる人物であろうと思われる

太田康有を経て太田時連となる。

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八幡荘 ↓ 下総国

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E8%8D%98_(%E4%B8%8B%E7%B7%8F%E5%9B%BD)

八幡荘(やわたのしょう)は、中世の下総国葛飾郡にあった荘園。現在の千葉県市川市の北部地域に相当する。谷中郷・蘇谷(曽谷)郷・中沢郷・大野郷の4郷から構成される。

保元3年12月3日(1158年)付官宣旨に記された石清水八幡宮領「下総国 葛餝別宮」(葛飾別宮)が前身と考えられる。

『吾妻鏡』文治2年3月12日(1186年)条の関東御知行国々内乃具未済庄々注文にも「八幡」とみえるが[1]荘園領主の記載がなく、鎌倉時代には千田泰胤から娘婿の千葉頼胤に継承されたとされ、富木常忍・曾谷教信・太田乗明らが代官を務めていたとされる。彼らは迫害を受けていた日蓮を迎え入れてこれを保護した。そして富木常忍は日蓮の没後出家して日常と号し、日蓮のため自邸に建てた法華堂を法花寺と改め第1世貫首となった。

太田乗明の子日高は父の屋敷を本妙寺として日常を後継し第2世貫首となり、後の天文14年(1545年)に古河公方足利晴氏から法花寺・本妙寺の両寺を統合する寺号として贈られたのが今日の法華経寺であるとされている。

元応2年(1320年)には、本妙寺俗別当であった頼胤の嫡孫胤貞から猶子であり第3世貫首の日祐に八幡荘の一部が譲与され(『中山法華経寺文書』元応2年12月1日付千葉胤貞譲状)、以後南北朝時代を通して八幡荘のほとんどの地域が胤貞流千葉氏によって寄進されて(『中山法華経寺文書』観応3年4月25日付千葉胤継寄進状など)法華経寺領として伝えられたとされている。

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1 コメント

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Unknown (りひと)
2019-09-27 11:48:41
葛飾あたりの鎌倉前期からもっと前が知りたいんです。川を隔てちゃうので千葉と東京とで分断されちゃうんですけどそもそもその川のお水が少なかったら境界にもなっていないはず。時代と共に分断されていった流れにはなると思います。石清水との縁があったのもいいですね。東京東もかなり多いですよね。

さっきテレビのアナウンサーさんが卒業ってやっていたんですよ、カサイさん。太田さんがやっつけた豊島さんとの関係もまた徳川が太田さんの知識を利用しているのも太田さんの知識は豊島さんからきているだろうし、そのもっと前の葛飾、葛西がとても気になります。

小杉御殿もWikiみましたけど時代ごと色々ありますね。そう品川もやたら行くような流れになるんですよ、今日も迷いました。笠被ったお地蔵さんの関係なんですけど、笠の一族も探っております。山形の花笠も色々と父と妄想。松平の知識で徳川なんですけど松平の中のナカもちょっと時間出来たら探してみます、女系で入ってるんでしょうね。
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