呉長丹(くれ ながに)こと吉士長丹(きしの ながに) の 呉神社=公禮八幡宮
この巨勢忠久なる人物は、実は康永1342年-1345年に活躍したらしい。
とすれば、もちろん呉長丹には実際に会っていない。
呉長丹は653年に遣唐第1船の大使として唐に行った人物なのだ。
呉神社は、呉長丹の帰国よりも先に存在していた可能性はないのだろうか?
【呉の宮】と云うからには呉から来日した要人がそこに泊まる場所…とか、そのような意味があったのではないだろうか?
応神天皇の時代にもwikipediaによると以下のような百済とのつながりがあった。
「即位14年、弓月君(秦氏の先祖)が百済から来朝して窮状を上奏し援軍を求めた。弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、その民は加羅に留まっていた。そこで葛城襲津彦を派遣したが三年経っても弓月君の民を連れて帰還することはなかった。
即位16年8月、新羅の妨害を防いで弓月君の民の渡来させるため平群木菟宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が派遣され新羅国境に軍を展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。
即位15年8月、百済の阿花王(阿莘王)が良馬二頭を阿直岐(あちき)に付けて献上した。この阿直岐は阿直岐史の祖であり、経典が読めたので菟道稚郎子の師となった。
即位16年2月、天皇はさらに優れた人物を望み、阿直岐から推薦された王仁(わに)を呼び寄せた。王仁は書首(ふみのおびと)の祖である。『古事記』にも同様の記事が見えるが、百済の王は照古王(近肖古王)とされ、阿知吉師(阿直岐)は牡馬と牝馬を献上し、阿直史らの祖となったとある。また天皇が「もし賢人しき人あらば貢上れ」と仰せになったので「命を受けて貢上れる人、名は和邇吉師(わにきし)。すなわち論語十巻、千字文一巻、併せて十一巻をこの人に付けてすなわち貢進りき。この和爾吉師は文首等の祖。また手人韓鍛(てひとからかぬち)名は卓素(たくそ)また呉服(くれはとり)の西素(さいそ)二人を貢上りき」とある。この論語と千字文の貢進がそれぞれ儒教と漢字の伝来とされている。
即位20年9月、倭の漢直の祖阿知使主(あちのおみ)、その子都加使主、並びに己が党類十七県を率いて渡来。
即位37年、阿知使主と都加使主は縫製女工(きぬぬいおみな)を求めるため呉へ派遣された。これは倭王讃の朝貢にも比定される。またこれらは神功皇后紀における『魏志』と『晋起居注』(現存せず)の引用を除けば『日本書紀』における中国関連最初の記事である。」
武寧王502-523 / 聖王523-554 / 威徳王554-598 / 恵王598-599 / 法王599-600 / 武王600-641 / 義慈王641-660
桓武天皇の母高野新笠の父(つまりは桓武天皇祖父)は和乙継
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E4%B9%99%E7%B6%99
和乙継の祖先は百済武寧王
私が思っていた以上に、百済とのつながりは深いようである。
秦氏と呉国のつながりも知りたいところなのだが、目まぐるしく国が変わっていくので、とても付いていけず…挫折中。
青魚食べて頭強化しなくては。