近江国の近江八幡
宇津呂町(八幡小学校裏)に公礼八幡宮の小祠があるが、これを通称「呉の宮」と呼び、以前には巨勢忠久の筆になる長丹の画像二面が所蔵されていた。
この長丹が 呉長丹=吉士 長丹
白雉4(653)年に派遣された遣唐使の大使。このときの位は小山上で,副使は吉士駒,同行の留学僧には,道昭,定恵(中臣鎌足の子)らがいた。翌年7月,百済,新羅の送使と共に帰国したが,このときは西海使と『日本書紀』に記されている。同月,唐の皇帝(高宗)に会見して多くの書物と宝物とを得たことを賞して,小花下の位を授けられるとともに封戸200戸と呉氏の姓をも与えられた。
昨日のこの図に「西海大使長丹像中図二枚…」と書かれていた。
この図と前のページの秦河勝の冠古図というのが関係があるのかどうか・・・・?
また、そのさらに前のページに「厩戸皇子」とあり【百済阿佐太子書寫(写)】とある。
この阿佐太子は、wikipediaに書かれていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E4%BD%90%E5%A4%AA%E5%AD%90
百済の王族出身の画家。推古天皇五年(597年)、威徳王の命で来日[1]。推古天皇五年(597年)に朝貢した百済王の子といわれるが、百済の史料にはない
真偽のほどはあるらしいのだが、
コトバンクにもある「百済(くだら)の王子。推古天皇五年(五九七)来朝。聖徳太子に会うと、救世観音(ぐぜかんのん)の化身であると合掌し、太子もまた、わが弟子であると言ったという伝説がある。御物「聖徳太子御影」はその筆と伝えられる。生没年未詳。」
「推古天皇5年(597),威徳王の命で来日。「聖徳太子伝暦」によれば,聖徳太子が「阿佐は前世でわが弟子であった」とつげたという。 」
これらの説を信じたい気もする。
威徳王を一代目と数えて5代目に義慈王で、その息に豊(扶余豊璋)、勇(百済王善光)がいて、朴市秦 田来津と繋がる。
597年にもしも百済の王子と聖徳太子が会っていたとすると、ちょうど秦河勝の時代と被る。
威徳王を調べてみよう!