後藤基清は西面の武士でもあり、息基綱の妻には同じく西面の武士であった「大江能範」の娘を迎えている。基政の母親となる。
基政の息基頼には「宇都宮頼業の娘」が嫁いでいる。基宗の母となる。(この頼業の娘の兄弟に蒲生秀頼がいる)
宇都宮氏と蒲生氏との関係は以下のページに詳しい!
http://shimotsuke1000goku.g2.xrea.com/gamougai.htm
コトバンクより『西面の武士」
後鳥羽(ごとば)上皇院政時代に設けられた院司(いんじ)の一つ。白河(しらかわ)上皇の院政のときに創設された北面(ほくめん)武士に対し、院御所(いんのごしょ)の西面に侍し院中の警固などを行った。院西面(いんのさいめん)ともいう。設置の時期は『吾妻鏡(あづまかがみ)』などから1206年(建永1)以前と推定されるが不詳。在京御家人(ごけにん)や検非違使(けびいし)、院分国・院御領などを通じて関係の深い武士で構成され、上皇の私兵としての性格が強い。『吾妻鏡』には後藤基清(もときよ)、五条有範(ありのり)、大江能範(よしのり)、佐々木広綱(ひろつな)らの名がみえる。『承久軍(じょうきゅういくさ)物語』には、武勇に優れた者や相撲(すもう)の達人が関東から召し出され、西面に任じられたとある。承久の乱(1221)では上皇方の兵力の中心となり、乱後は廃絶された。[権平慶子]
後藤基政 コトバンクより
建保(けんぽ)2年生まれ。後藤基綱の長男。母は大江能範(よしのり)の娘。嘉禎(かてい)3年鎌倉幕府4代将軍九条頼経(よりつね)の近習番となる。正嘉(しょうか)元年引付衆。将軍御所の歌会にしばしば出席し,弘長(こうちょう)元年「関東近古詠」の編集を命じられた。文永4年6月23日死去。54歳。
没年:文永4.6.23(1267.7.16)
生年:建保2(1214)
鎌倉中期の武将。後藤基綱の嫡子。母は,大江能範の娘。越前国守護。鎌倉幕府の引付衆,地奉行として鎌倉の市政に携わった。将軍家の和歌会にはたびたび出席した歌人。嘉禎3(1237)年将軍藤原頼経の近習番に選ばれ,以後たびたび番衆に選ばれる。暦仁1(1238)年,検非違使六位尉。仁治2(1241)年叙留されて,検非違使大夫尉。建長3(1251)年壱岐守。正嘉1(1257)年引付衆となる。弘長1(1260)年には『関東近古詠』の選集を命じられた。弘長3年在京を命じられ六波羅評定衆となる。
(永井晋)
この基政のいた時代が「富木常忍」の時代と重なっている。という事は基綱の時代は蓮忍入道(九里の祖)と重なっていることとなる。
後藤基綱 コトバンクより
1181-1256 鎌倉時代の武将。
養和元年生まれ。後藤基清の子。鎌倉幕府につかえ,承久(じょうきゅう)の乱で後鳥羽(ごとば)上皇側についた父の首をはねる。嘉禄(かろく)元年初代評定衆のひとりとなり,のち越前(えちぜん)守護。寛元4年評定衆を解任され,建長4年引付衆となった。康元元年11月28日死去。76歳。
没年:康元1.11.28(1256.12.16)
生年:養和1(1181)
鎌倉幕府4代将軍藤原頼経の側近で,将軍家の和歌会に席を連ねた歌人。後藤基清の子。承久の乱(1221)では幕府方として戦い,京方についた父基清を幕府の命令によって斬首した。嘉禄1(1225)年評定衆となる。将軍頼経の政所では,保奉行人を管理して鎌倉の市政に携わった。また,恩賞奉行も兼務。
越前国守護に補任され,以降鎌倉幕府滅亡まで後藤氏がこの職に任ぜられた。
嘉禎2(1236)年,使節として上洛し,南都の嗷訴を鎮めた。同年,佐渡守,翌3年玄蕃頭。
寛元4(1246)年6月,宮騒動に連座して評定衆を解任された。
その後,建長4(1252)年4月には,引付衆に任ぜられた。<参考文献>『関東評定伝』
(永井晋)
後藤基清 コトバンクより
?-1221 鎌倉時代の武将。
佐藤中清の子。後藤実基の養子。源頼朝につかえ,平氏追討に活躍して讃岐(さぬき)守護となる。正治(しょうじ)元年中原政経らと源通親襲撃をはかり,流罪。のち,ゆるされて検非違使(けびいし)をつとめ,また播磨(はりま)守護となった。
承久(じょうきゅう)の乱で後鳥羽(ごとば)上皇側について捕らえられ,承久3年7月2日子の基綱にきられた。
没年:承久3.7.2(1221.7.22)
生年:生年不詳
鎌倉前期の武将。実父は藤原秀郷の子孫の内舎人佐藤仲清,養父は同族の兵衛尉後藤実基。官位は従五位上,検非違使・左衛門少尉に昇った。源平の争乱では源氏方に参じ,屋島の戦(1185)では養父と共に屋島内裏を焼く戦功を挙げ,讃岐国の守護に任じられる。
源頼朝の許しを得ずに兵衛尉に任官し,一時鎌倉への出仕を停止される。その後許され,おもに京にあって京都守護一条能保を助けて活躍。正治1(1199)年,中原政経,小野義成と源通親襲撃を企て流罪。通親死後に許され再び京にあり,後鳥羽上皇に近侍するようになる。承久の乱(1221)に際しては京方につき,鎌倉方の子息基綱によって斬首された。
(本郷和人)
1155‐1221(久寿2‐承久3)
鎌倉前期の武士。佐藤仲清の子。後藤実基の養子。左衛門尉,検非違使に任じ,在京御家人として,1196年(建久7)平知盛の子知忠の謀叛を鎮定し,1218年(建保6)には伊勢平氏余流の平正重の反乱をおさえた。讃岐守護にも任じたが,1199年(正治1)将軍源頼家によって罷免された。また建保~承久のころ播磨守護に任じたが,承久の乱に朝廷軍に与同し刑死した。【小田 雄三】
===*===
さて、武芸にも文芸にも秀でていた後藤氏だが、更に出納にもその力は発揮されていたようで「公文職」である後藤氏も居た。
http://gos.but.jp/gotoh.htm
『作州の後藤家は、鎌倉時代に下野守藤原康基(良猶)が美作国塩湯郷の地頭・公文職に任じられたのにはじまります。』
後藤氏に公文職の人がいることがわかった。
時折、探している苗字が不思議とこのHPとつながってくるのだ。
『母の曾祖母愛の実家、中之町池田家には三星城主後藤氏の系図があり、上記の弥右衛門(元清)の曾孫佐野右衛門基義まで記しています。これは、佐野右衛門基義の娘が丈右衛門へ嫁いだ縁で持ち込まれた(書写された)ものと思います。』
三星城もまた、なぜか九里氏とのつながりを感じさせる「赤松氏」がいる。赤松氏の家臣が後藤氏であったと思われる。
足利義澄の九里の館で生まれた息=後の義晴の預かり先が赤松義村であった。
http://ochibo.my.coocan.jp/rekishi/akamatu/syozamurai/goto4.htm
後藤氏の直の配下に「小堀氏」がいて、「辻氏」もいる。
辻氏に関しては後日記事にしたいと思っている。
後藤氏も掘ってみると様々な接点がある事に気が付いた。
安田荘(中世) Jlogos より
鎌倉期~戦国期に見える荘園名播磨国多可郡のうち安田郷・曽我部郷・野間郷・高田郷・中村郷の5か郷から成る「吾妻鏡」文治2年6月9日条によると,安田荘は,領家若狭局から預ったと称して梶原景時が押領していると記されている
若狭局なる人物については未詳
建久3年2月,後白河法皇は寵妃丹後局高階栄子を当荘預所に任じ,その伝領を認めた(九条家文書2/図書寮叢刊)しかし,正応6年3月17日の九条家文庫文書目録に「一合 安田并新田庄」などと見え,高階栄子の死後どのような経緯でか当荘は九条家領となっており(同前5/同前),以後同家に相伝されている
また,永仁5年8月日の御所大番役定書案によれば,野間郷が4月と10月,高田郷が4月と9月,曽我部郷が5月と11月,中村郷が5月にそれぞれ京都御所大番役を勤仕することになっていた(同前5/同前)
九条家領安田荘のうち,安田郷については,正和5年7月27日の一音院領目録によればその年貢の一部が九条家所縁の一音院の領するところであり(同前6/同前),応永3年4月日の九条経教遺誡にも「於安田郷者,一音院寺用,公乗法印奉行,使田年貢千疋致沙汰,其外不及課役」と見え(同前1/同前),永享11年2月4日九条満教は一音院に安田郷を安堵している(同前6/同前)
また,承久3年7月24日,宇治合戦での後藤基重の軍忠に対し六波羅探題は後家の住む安田荘を安堵しているが,具体的には当荘安田・曽我部・中村3か郷公文職が安堵の内容であった(後藤文書)
3か郷公文職は南北朝期・室町期を通じて後藤氏に相伝されていることが,譲状からうかがえる(同前)
戦国期,赤松政則が死んで浦上氏が実権を握った時期に後藤氏は赤松方についたため所領を没収されたようであるが,赤松政村の勢力が幾分回復すると,天文6年3か郷公文職が元のごとく後藤基次に返付された(同前)しかし,同年5月20日政村から直接3か郷の名主百姓中にあてて,年貢を他所へ納入しないよう厳命していることから,基次の支配は極めて不安定なものであったと思われる(同前)
基次は以後も赤松政村方に属し,天文14年10月12日「曽我部郷内長枝名・安田・中村公文職」を安堵されている(同前)
安田荘では,南北朝期九条家は,建武元年2月当荘地頭職を後醍醐天皇から,建武3年8月当荘領家職を足利尊氏から認められた(九条家文書5・1/図書寮叢刊)
同家は,在地武家勢力に対抗し荘園経営を維持するため将軍家の保護を求めたようで(西脇市史本篇),康暦2年10月21日当荘領家職半分を足利義満建立の山城宝幢寺へ寄進しており(鹿王院文書/西脇市史史料篇),応永3年4月日の九条経教遺誡によれば当荘5か郷のうち中村郷と野間郷半分が将軍家の料所となっている(九条家文書1/図書寮叢刊)
しかし,康暦2年12月23日の宝幢寺長老(春屋妙葩)書状によれば,現地では守護や代官などが年貢をほとんど収納して宝幢寺の取り分はなく,毎年5,000疋と定められた宝幢寺分に対して諸人が異議を申し立てる状況であった(同前2/同前)
以後も守護・地頭の押妨が続いたため宝幢寺は九条家に請うて,応永29年当荘5か郷のうち高田郷領家職を宝幢寺が,残り4か郷領家職を九条家が知行することにした(同前)ところが応永34年地頭得平源太が荘主を殺害し高田郷を押領したので幕府に訴えたところ,永享4年6月11日,領家職は元々のごとく5か郷を半分ずつ知行すべきで,その分については地頭の押領を停止させるという判決が下された(御前落居記録/室町幕府引付史料集成)
その後,文明10年5月28日当荘を含む宝幢寺領が足利義政から返付されているが(鹿王院文書/西脇市史史料篇),長享3年3月には「国一乱以来不知行」という有様であった(蔭涼軒日録/大日本仏教全書)
一方,当荘所職・収益の一部は応安6年5月12日天台宗門跡寺院青蓮院にも寄進されており(華頂要略1/同前),同院門主義円から,応永10年閏10月14日法輪院心能に,応永12年8月30日若寿丸に宛行われ(門主伝・明王院文書/大日料7-6・7-7),応永16年3月11日野間郷を除く当荘が再び法輪院心能に宛行われた(門主伝/同前7-11)
当荘青蓮院分5か郷代官職には,文明10年1月11日赤松八郎太郎,文明16年11月3日多々良岐高重が補任されている(華頂要略1/大日本仏教全書)
ところで九条家領安田荘は,永享元年9月14日の足利義教の御判御教書以来,代々の足利将軍によって諸役を免除されているが(九条家文書2/図書寮叢刊),戦国期には守護勢力の押妨に抗しきれなかったようで,天正13年5月14日の九条家の所々指出目録案に当荘は不知行と見える(同前1/同前)
なお,「峰相記」によると,欽明天皇の時代百済から渡来した恵弁・恵聡の2僧が,物部守屋のため播磨国の「安田ノ野間」の牢に入れられ,守屋滅亡後牢の跡へ一伽藍を建立したという(続群28上)
また,「源平盛衰記」や「平家物語」によれば,一ノ谷の合戦で義経軍を案内した人物に安田荘下司多賀菅六久利の名が見え,先祖相伝の当荘下司職を平家の侍越中前司盛俊に押領されたと述べている
さらに天正16年の奥書をもつ「赤松記」によれば,嘉吉の乱で赤松氏が没落したのち,当荘は細川勝元の知行となり,赤松政則と勝元の娘が結婚した際,勝元が娘に安田・中村・高田3か郷地頭分を与えたという(群書21)
安田郷は現在の中町東安田・中安田・西安田から西脇市の一部にかけての地域に比定され,安田荘は現在の中町の北部を除く一帯から西脇市の一部,八千代町の東部にわたる地域に比定される(多可郡誌)
===*===
それらの領地をとられた後が、作州の後藤氏という『ごさんべえのぺーじ』(さん)のHPにつながってくるのでは・・・と思うのだ。
「作州の後藤家は、鎌倉時代に下野守藤原康基(良猶)が美作国塩湯郷の地頭・公文職に任じられたのにはじまります。
天正七年五月、宇喜多家に攻められて三星城は落城、勝元は長内村大庵寺で自害しました。
義政は平田村に逃れて一時隠れ住み、後に津山町新魚町に出て平田屋という屋号で商売(醤油醸造)を始めました。」
http://gos.but.jp/gotoh.htm
後藤弥右衛門の娘とHPの文中にあるので、その「後藤弥右衛門」を調べてみると押野村の後藤氏と同じ弥右衛門なのである。
https://www.city.nonoichi.lg.jp/soshiki/40/466.html
そこでは富樫氏から後藤氏を名乗るようになっていた。
金沢の話であるが、越中国のまごはちさんのHPにもそのあたりのことが書かれていたように思う。
赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!! さん より
https://blog.goo.ne.jp/magohati35/s/%E5%BE%8C%E8%97%A4
越前斎藤系に加藤、後藤、美濃斎藤氏等が有る。「石川県史」の「林氏系図」に拠れば、利仁ー叙用ー吉信ー忠頼(代々加賀介ー加賀斎藤)と続き、その長男則高ー為輔(石浦氏)の系統は越中寄りの石浦荘に拠り、越中側の石黒荘の開発も進め、3代後の光景は石黒姓を名乗った様で、為輔の次男吉宗は加賀介の家系を継ぎ、林、富樫等の祖先になったとされている。これ等の姓は今も金沢近郊に町名として残り、石川県に展開した一族と富山県に展開した一族とはここで分岐した事も推測できる。
===*===
この斎藤氏と後藤氏という関連が、鎌倉時代の野本氏との斎藤氏、とリンクしているように思えてきた。
日蓮宗と後藤氏にもつながりがある。これにも注目してみたい。