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三左衛門事件の「中原政経」周辺。 政経=政恒法師ヵ?

2020-01-30 | 中原氏バラバラ情報


字は違うが中原に「政経」がいる。三左衛門事件の首謀者と言われている三人のうちの一人である。
この政経が法体となり「政恒法師」となったのかもしれない。
もしも、これが正しいとすれば「政恒」1246年にはいくつだったのだろう。

1199年に三左衛門事件があった。仮定で25歳の時とする。
1246年 72歳である。

おなじ三左衛門事件に関わった「後藤基清」実は佐藤忠清の息である。
其の基清の息に「基成、基綱、基重、太田基連」がいる。
太田基連を調べてみると、三善康信の猶子となり、康連の義理の兄弟となっていた!!






系図の(49)の部分が二重になっているが、わかると思う。
右の方に後藤基連がいて三善氏に入り、後藤氏に佐々木義清の息泰清の五男から入っている(後藤壱岐守基顕)

ここだ!と思う。今まで探していた康連の義理ではあるが兄弟「太田基連
その系から乗明が出てきたのではないだろうか?

「弟基連は先に鎌倉幕府問注所執事三善康信の猶子となって式目評定衆となり、
康信の子太田康連と義兄弟となっている。」「岩手史学研究」

定清は後藤基清の息であったが、定清ゃ大門寺の周辺にはほかにも後藤氏閲係者の
存在が確かめられる。たとえば、定清の直接の弟子ではないが、大門寺で
活動していた弘基と定撰という僧は、ともに定清の兄弟後藤基連の子であった。「武家の古都、鎌倉」高橋慎一朗著

===*===

後藤基綱(基清の息で、父の敵方となってしまっために父を斬首することに…)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%9F%BA%E7%B6%B1

この基綱の例を見ると、「引付衆として返り咲くが既に72歳の高齢に達しており、後藤氏の名誉回復に近いものであったとも見られる。」とある様に、幕府に引付衆として呼ばれることもある。


中原政経は、この三左衛門事件の三人の中では若かったかもしれず、また、その後の足跡も分からないといわれている。
三人のうちの一人である小野義成のwikipediaによると、ほどなく許され1205年からはまた活躍しているようなので、中原政経も同じであったかもしれない。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%BE%A9%E6%88%90

中原政経=政恒法師 の可能性はまだ残っていると思う。

さらに近江国に「木村後藤氏」がいるそうなので、そこも探ってみたい。


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