この系図の「景経」が近江国伊香郡富永庄にいた記録がある。召次であり、広橋経光をもって、勘解由判官になれるよう請願していた。
また、1246年 寛元4年
9月8日 癸亥 [葉黄記]
重時朝臣使者(重家・淳賢)を送り、近江の国伊香郡召次案主職の事、政恒法師関東家人たるに依ってこれを執り申す。早く奏すべきの由返答しをはんぬ。十四日事の由を申し、院宣を遣わしをはんぬ。
重時は北条重時
重家は佐治重家
淳賢は?僧の名前のようである。
上記の政恒法師は、中原のように思える。 和歌山系図の始りは「助恒」この政恒が祖父か父のように思える。
とすれば、やはり近江国人でありながらも関東に赴いていたと思われる。
葉黄記に出てくる佐治重家も因幡国の佐治郷の地頭でありながら重時の執事として大活躍している。
同じように江州中原氏も近江(因幡・丹波モカ?)の地頭でありながらも誰かの家司や執事となり、御家人としての役目を果たしていたと思われる。
その後、室町時代には近江国を中心に六角佐々木氏のもとで、幕府の奉行人でありつつも、六角の被官として仕事をしていたように思う。
助政・助恒と政恒
景経の系だろうか?
そこから、小堀氏と九里氏にもつながっていたのだろうか?
しかし近江国御家人井口中原系図の中の景経の続きには見当たらない!
という事は、経季の後裔か?
恒季から政恒となって助政・助恒か?
但し、九里とは限らず、また、中原とも限らない。全く別の氏かもしれないが。。。近い!
其の政恒法師は他には見ることができなかったが、恒元法師がいた。
それが、佐々木泰清の下知を受けている「隠岐島美多神社大山荘」の禰宜職に関するものであった。
恒元ー慈蓮ー蓮浄 である。
また、明日以降に調べてみようと思う。
近江国の真野氏が承久の乱あたりに、一族隠岐島に移住したと以前教えてくださった「真野様」がいらした。
このことと関係してくるのかもしれないからだ。
蓮浄―蓮乗ー蓮忍 とあったことにつながってくるのだろうか?