だんだんと、九里氏に近づいている佐治氏。
中原友景が佐治重家に進上している書状が残っている。
中原友景といえば、コトバンクによると ↓
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E5%8F%8B%E6%99%AF-1136289
鎌倉時代中期の官人。建保5(1217)年に修明門院の下北面(院に仕える侍),嘉禄2(1226)年に使宣旨を受け,その後10年ほどにわたって検非違使として活動の所見がある。西園寺実氏の後見といわれており,武家との申次 をつとめるなど,同家において重要な立場にあったらしい。後嵯峨院の下でも,下北面の所司・御厩案主に任じられている。西園寺家の興隆を下から支えた人物のひとりといえよう。
(本郷恵子)
西園寺実氏の母は、一条能保の娘全子であり、一条家には中原政経が家司として仕えていたことがわかっている。
更に友景は前石見守として登場しているので、それは清原出身の有安の系が混じっていると思われる。
中原有安(有康)・中原景安(景康)…と云う事は、景安の兄弟あたりの年代かも知れない。
九里氏の祖となる中原氏と石見国関係の久利氏の祖となる清原氏の接点となる人物、それが中原有安とその息たちなのではないだろうか。
そう思えば、石見国の清原系の中原友景(鎌倉と京を行き来)が近江へやってきて九里氏と名乗っても、おかしなことでもない。
その中原友景が、佐治重家に書状を出している。
この中原友景は、一通の書状では中原友重ともなっており、同一人物のようである。(息かもしれないとも思うが、北条重時から一字を賜わってのことかもしれない。)
さて、佐治重家とは、どのような人物だったのだろうか?
調べてみると因幡国の佐治重貞の息子であった!
北条重時の側近である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E6%B2%BB%E9%87%8D%E5%AE%B6
https://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%87%8D%E6%99%82-132148
中原友景は大中臣姓も名乗っていたことがあったはず?(memo)
光氏と兄弟だった・・・と自分のブログ内検索で調べると出ていた。(笑)忘れていた。
二人友景がいた…とその時は判断したが、今は違うような気もしている。