【ヰノクチ ヰクチ】姓氏家系大辞典より、気になる処を書いていこう。
井口氏三郎は越中井口に住し、郷なを以て氏と為す也。(且つ越中井口氏の祖は利仁にして、斎藤氏というは誤れり。又同譜(富樫家譜)に承久三年法皇の勅に因て、越中の井口氏は。富樫家春と俱に、越後越中の境川に東郡を防ぐと云えども、負けてひくとあり)
また、昨日の記事の「井口條を見よ」の件は、下記のようになる。
又、同郡木舟に石黒氏あり。…
木舟城主の歴代は、又次郎光直ー大炊助光教ー大炊左衛門成親ー左近蔵人成綱(信長に誅さる)-左近
又、成綱の弟に湯原八丞國信あり。
國信(高畠古典本に、國信兄石黒左近自刃後、越中を退き、紀州まで至り、二三年を経天正十二年下向、國祖是を召出され、同十四年賜二千五百石とあり。(長太夫祖)其の弟を治郎と云ふ。・・・
紀州まで至り・・・とある。誰かを頼って行ったのではないだろうか。
次に紀伊の井口氏を読んでみると、
【紀伊の井口氏】
…また、在田郡大谷村舊家井口平右衛門條に「樋口兼光の子井口次郎右衛門兼貞、其の子平右衛門兼元なり」と見ゆ。しからば、信濃の樋口氏か、されど微證なし。…
この兼光は、中原兼遠の次男である!木曽義仲を赤ん坊のころに預かってきた其の人の次男である。
木曽義仲の乳母子であるため、共に育ち、共に闘っていた一番義仲に近い家臣である兼光。
もしも、このことが本当ならば、やはり、紀伊国の井口氏と越中国の井口氏とは関係があるのではないだろうか。
明日に続く。