千葉から肥前国へ赴いた小城千葉氏。
「元寇」の際に、千葉氏も肥前国小城郡に所領を持っていたことから出陣を命ぜられた。
千葉頼胤は毒矢を受けて戦傷死。
そのために息千葉宗胤(当時十二歳)が九州へ下向することとなった。
元寇が1274年
それよりも27年も前に、譲り渡しがあったのだが、相論にもなっているようである。
千葉氏はいつのころから肥前国に所領をもったのであろう。
元寇よりもずっと以前の鎌倉初期から持っていたのではないだろうか?
何度か紹介している有間朝澄~深江蓮忍への譲り渡し状。
ここにある「肥前国高来東郷 深江浦」というのが、どうもわからないのだが、その深江から名をとり、深江蓮忍としたであろうことは想像できる。
有間(平)朝澄が元の持ち主であった。
1247年という事は、富城蓮忍とすると、まだ因幡国に滞在していた頃である。
東国千葉から出かけるよりはずっと近いので、行ってきてくれ!という事になったのだろうか。
===*===
話を千葉氏に戻すと、
文永の役・弘安の役と二度にわたる元寇後、九州へ出陣した御家人の帰郷を認めなかった。そのため、宗胤も下総国へは帰らずにいた。さらに弘安6(1283)年から正応4(1291)年にかけて大隅守護職に補任されるなどより忙しくなり、宗胤はそのまま肥前国で没してしまう。
宗胤の弟胤宗が千葉介に就任し、以降、胤宗の子孫が下総千葉氏として続くこととなる。
宗胤は下総国千田庄や八幡庄に広大な私領を有していた。
宗胤の子孫の嫡流は下総に戻って、千田庄や八幡庄に本拠にして【千田氏】として続く。
肥前国小城郡に残った宗胤傍流の子孫は、小城郡を中心に繁栄し、小城千葉氏として肥前国に強大な影響力を持つ。
後には龍造寺・鍋島氏等ともつながっていく。