1101年(康和3)7月7日…義家が、暴れている次男対馬守義親を召喚させるのに派遣させたのが山内首藤氏の首藤資通。
どうしたわけか、迎えにいったはずの首藤資通も義親とともに義親召問の官吏を殺害してしまうことに…。
翌年、12月28日、ついに朝廷は源義親の隠岐配流を決定。
この山内首藤氏の祖【首藤資通】奥州後三年の役に登場します。その時、13歳。
そして、wikipediaによると
『首藤資通の祖父、藤原公清は秀郷流藤原氏で、従五位下左衛門尉検非違使。京武者であり、その系統の多くは佐藤を名乗る。その嫡流は鳥羽院に使えた北面武士、従五位下左衛門尉佐藤季清であり、その孫が、やはり鳥羽院に使えた北面武士・従五位下佐藤兵衛尉義清、後の西行である。』
・・・と西行にまでつながる。
奥羽山内首藤氏の系図によると、資通の後裔に「畔蒜庄」寛元1畔蒜南北庄領主職=山内首藤清俊の清俊がいる。
坂上重盛が義親に同心して、義親と共に誅された。
その子は、中原定清に養子に入る。
清重(=清定)である。その清定の息子が清業である。
そして、私の持っている小説には「父親史大夫中原清貞が忠盛に仕えていた関係から、頼盛とは幼い頃から一緒に遊んだ仲で、頼盛は五歳年少の清業を弟のように可愛がってきた。」とある。
しかし、同じ時代に、平清貞がいる。
こちらの清貞はwikipediaによると『平清盛の養子。実父は大外記を務めた中原師元であり、兄に師尚がある。』となっており、子の師行は中原に復しているそうだ。1184年に亡くなったとあるが、文書には1297年平清貞と署名が残っている。(web東寺百合文書)
平に養子に行った方の中原清貞の実父は中原師元であり、養子に清原から来た中原祐安がいる。
その祐安から【 出納平田家/蔵人所深尾家】が始まる。
そして、祐安と「清原頼業」は兄弟である。
【深尾】という名前まで出てきてしまった。。