近衛氏に土地に関する要件を頼まれている九里氏。(源兵衛か、但馬か、)
その近衛尚通の《家族の仲の良さ》がわかるのが以下の論文紀要。
☆論文紀要 上杉本洛中洛外図屏風注文者 近衛氏の生涯 小谷量子 著
日本女子大学大学院文学研究科紀要 第 23 号
近衛尚通の娘が慶寿院なのだが、他にも近衛氏と足利氏は繋がっている。
尚通の嫡男の稙家(このえ たねいえ)の娘は足利義輝の正室、太陽院である。
その太陽院は、近衛前久と姉妹兄弟という事になる。
その近衛前久の猶子に顕如(光佐)の息教如がいる。
顕如(光佐こうさ)は、大和宇陀松山藩にいた磯野氏の系図の中に登場している。
磯野秀昌の養子となる秀時である。佐々木六角氏流の和田氏である。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/wada_k2.html
天正8年(1580年)3月、顕如は正親町天皇の勅使・近衛前久の仲介による講和を受け入れ、大坂本願寺から紀伊国鷺森御坊(現・和歌山県和歌山市)へ退去する(wikipedia)
この和田氏には見覚えがある。(和田惟政は高山友照と高山右近が仕えていた。)
甲賀の和田氏と湖北の磯野氏が繋がっていたことになる。
そして、系図の中にある佐和山城主となった磯野秀昌は、武将として有名な【磯野員昌】のことと思われるのだ。
天正6年(1578年)織田信長配下から逐電。(高野山に追放されたともある。)
(天正18年(1590年)死去。享年68。)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/780393/1/26
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和田定秀 その三男が磯野氏に入り、磯野秀時となる。