平安遺文に記載があったようなので、書き間違いか、はたまた平安時代の研究者の見解なのか。。。
奇妙である。日本書紀 原文の書き間違えかも知れない。
年代すり替えの工作部分を工作し忘れてしまった部分かも知れない。
ジャパンナレッジによると
第36代に数えられる天皇。在位645-654年。名は軽皇子。皇極女帝の同母弟で,父は舒明天皇の弟の茅渟(ちぬ)王,母は欽明天皇の孫の吉備姫王。
《日本書紀》や《大織冠伝》には,中臣鎌足が皇室中の人材を求めて天皇に接近し,天皇がこれを厚く待遇した話がみえるが,《上宮聖徳太子伝補闕記》によれば,643年(皇極2)11月に蘇我入鹿が山背大兄王を攻め滅ぼしたとき,天皇はその軍に加わっていたという。645年(大化1)6月に甥の中大兄皇子(天智天皇)らが蘇我氏権力を打倒すると,皇極女帝の譲位をうけて即位し,中大兄皇子を皇太子とし,年号を大化と定め,同年末に都を難波の長柄豊碕宮(ながらのとよさきのみや)に移した。また中大兄皇子の妹の間人(はしひと)皇女を皇后としたが,即位以前にすでに妃の阿倍小足媛(おたらしひめ)との間に有間皇子を生んでいた。
天皇の治世は改新政治の発足期で,中大兄皇子が実権を握って政治を推進したとみられるが,653年(白雉4)に至って,皇子は天皇が同意しなかったにもかかわらず,皇極上皇,間人皇后以下公卿百官人を率いて大和の飛鳥に戻った。ひとり難波に残された天皇はこれを恨んで退位を考え,山碕に宮を造らせていたが,翌年10月に難波の宮殿で病死し,翌月河内の大坂磯長陵(おおさかのしながのみさざき)に葬られた。
父の死後、有間皇子は政争に巻き込まれるのを避けるために心の病を装い、療養と称して牟婁の湯に赴いた。飛鳥に帰った後に病気が完治したことを斉明天皇に伝え、その土地の素晴らしさを話して聞かせたため、斉明天皇は紀の湯に行幸した。飛鳥に残っていた有間皇子に蘇我赤兄が近付き、斉明天皇や中大兄皇子の失政を指摘し、自分は皇子の味方であると告げた。皇子は喜び、斉明天皇と中大兄皇子を打倒するという自らの意思を明らかにした。なお近年、有間皇子は母の小足媛の実家の阿部氏の水軍を頼りにし、天皇たちを急襲するつもりだったとする説が出ている(森浩一『万葉集の考古学』など)。
ところが蘇我赤兄は中大兄皇子に密告したため、謀反計画は露見し(なお蘇我赤兄が有間皇子に近づいたのは、中大兄皇子の意を受けたものと考えられている)、有間皇子は守大石・坂合部薬たちと捕らえられた。斉明天皇4年11月9日(658年12月9日)に中大兄皇子に尋問され、その際に「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ」(天與赤兄知。吾全不知)と答えたといわれる。翌々日に藤白坂[2]で絞首刑に処せられた。享年19。