SFとは、未来社会を描く小説のジャンルであり、これまで様々な作品が世にお送りだされています。SFの世界はアニメや映画等によって映像化されており、人々は、視覚からも未来社会をイメージすることができるのです。しかしながら、最近に至り、SF小説は洗脳手段であったのではないかと疑うようになりました。
こうした疑いを抱くに至った理由は、SF小説の舞台となる未来とは、案外、ステレオタイプ化されているからです。これはアニメや映画等の映像とも共通するのですが、都市の景観といえば、天に届くばかりの超高層ビル群や球形といった奇妙な形状の建物が聳えており、そこでは木造や石造りの伝統的な街並みはきれいさっぱりと消え去っています。街行く人々の様子を見ましても、揃ってスマートな体型の人々が性別に拘わらず頭の先からつま先までウェットスーツのような体にぴったりした服装を身に纏い、整然とした街並みを颯爽と闊歩しています(高齢者の姿はあまり見かけないので、生命科学の発展によって不老不死化しているかもしれない…)。もちろん‘空飛ぶ自動車’もあれば、宇宙船とも言うべき‘空飛ぶ円盤’も空中を自由自在に飛び回っているのです。
小説、アニメ、映画等を通してSFが描く未来社会に親しむようになった人々は、知らず知らずのうちに未来社会を上記のステレオタイプ化されたイメージで捉えるようになります。そして、例えばSF小説を読んだ人は、超高層ビルディングが実際に建設されたり、球形の建物が出現すれば、それだけ時代が先に進み、‘未来’に近づいたと認識するのです。こうした高度な科学技術に支えられている‘未来都市’の光景は、SFで慣らされてきた人々にとっては既知であり、それ故に、何らの疑いもなく‘未来化’を当然のこととして肯定的に受け入れてしまいがちです。あるいは、内心において抵抗感や違和感があったとしても、‘時代の流れだから仕方がない’として諦めてしまうのです。
しかしながら、考えてもみますと、未来社会がSFによって決定づけられてしまうことは、奇妙なことでもあります。未来とは、過去を引き継ぎながらも人々が賢く取捨選択を行い、改善を繰り返し、さらに創造性を発揮しながら紡ぎ出されてゆかれるものなのではないでしょうか。到達すべき‘未来社会’は最初から設定されているわけではないのです。となりますと、SFが未来社会を予め決定して人々の思考に対して方向づけを行い、その実現を人類が目指すのでは、開かれているはずの未来を閉ざしてしまうことになりかねません。これでは本末転倒であり、未来に向けて自らの社会を構築してゆく自由や権利を人々から奪うに等しいのです。
戦争放棄を謳う日本国憲法第9条も、SF小説から着想を得ているとする説もあります。SF作家の人々が、人々を洗脳して誘導するために未来社会を設定したかどうかは分かりませんが、そろそろ人類は‘SFの呪縛’から解放されてもよいように思えるのです。歴史も伝統も文化の薫もない無味乾燥としたSFの世界が唯一の人類の未来なわけではないと考えれば視界が開け、気持ちが楽になる人は結構たくさんおられるのではないでしょうか。
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こうした疑いを抱くに至った理由は、SF小説の舞台となる未来とは、案外、ステレオタイプ化されているからです。これはアニメや映画等の映像とも共通するのですが、都市の景観といえば、天に届くばかりの超高層ビル群や球形といった奇妙な形状の建物が聳えており、そこでは木造や石造りの伝統的な街並みはきれいさっぱりと消え去っています。街行く人々の様子を見ましても、揃ってスマートな体型の人々が性別に拘わらず頭の先からつま先までウェットスーツのような体にぴったりした服装を身に纏い、整然とした街並みを颯爽と闊歩しています(高齢者の姿はあまり見かけないので、生命科学の発展によって不老不死化しているかもしれない…)。もちろん‘空飛ぶ自動車’もあれば、宇宙船とも言うべき‘空飛ぶ円盤’も空中を自由自在に飛び回っているのです。
小説、アニメ、映画等を通してSFが描く未来社会に親しむようになった人々は、知らず知らずのうちに未来社会を上記のステレオタイプ化されたイメージで捉えるようになります。そして、例えばSF小説を読んだ人は、超高層ビルディングが実際に建設されたり、球形の建物が出現すれば、それだけ時代が先に進み、‘未来’に近づいたと認識するのです。こうした高度な科学技術に支えられている‘未来都市’の光景は、SFで慣らされてきた人々にとっては既知であり、それ故に、何らの疑いもなく‘未来化’を当然のこととして肯定的に受け入れてしまいがちです。あるいは、内心において抵抗感や違和感があったとしても、‘時代の流れだから仕方がない’として諦めてしまうのです。
しかしながら、考えてもみますと、未来社会がSFによって決定づけられてしまうことは、奇妙なことでもあります。未来とは、過去を引き継ぎながらも人々が賢く取捨選択を行い、改善を繰り返し、さらに創造性を発揮しながら紡ぎ出されてゆかれるものなのではないでしょうか。到達すべき‘未来社会’は最初から設定されているわけではないのです。となりますと、SFが未来社会を予め決定して人々の思考に対して方向づけを行い、その実現を人類が目指すのでは、開かれているはずの未来を閉ざしてしまうことになりかねません。これでは本末転倒であり、未来に向けて自らの社会を構築してゆく自由や権利を人々から奪うに等しいのです。
戦争放棄を謳う日本国憲法第9条も、SF小説から着想を得ているとする説もあります。SF作家の人々が、人々を洗脳して誘導するために未来社会を設定したかどうかは分かりませんが、そろそろ人類は‘SFの呪縛’から解放されてもよいように思えるのです。歴史も伝統も文化の薫もない無味乾燥としたSFの世界が唯一の人類の未来なわけではないと考えれば視界が開け、気持ちが楽になる人は結構たくさんおられるのではないでしょうか。
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