雇用形態のグローバル・スタンダードとして、今や日本企業の多くが導入へと傾いている「ジョブ型」雇用。日本政府も「ジョブ型」促進の旗振り役となっているのですが、今日、日本国、否、全世界の諸国にとりまして最も同スタイルの導入が必要とされている職業とは、政治職、すなわち、政治家なのではないかと思うのです。
その理由は、政治家ほど、その仕事内容が不明確、かつ、曖昧な職業もないからです。広義の意味での法治国家であれば、政府の役割は国民に対する統治機能の提供ですので、政治家の職務や権限の範囲は法律によって明確に規定されているはずです。ところが現実には、普通選挙制度を備えている民主主義体制の国家であっても、政治家とは、国民にとりましては、影では何をしているのか分からない謎多き存在なのです。居眠りしている国会議員の姿が、国会の日常風景となっているように、憲法で定められている職務さえ果たしているのか怪しい限りです。国会議員のみならず、首相や閣僚などの政府関連の政治家ともなりますと、職権が恣意的に使われても、国民の殆どは気がつきもしないかもしれません。
こうした政治家の仕事の不透明性は、公私が混合しやすい環境にも起因しています。支持団体のみならず、親族関係を含めた私的な人脈やネットワークからの要望を受けて政治権力を行使しても、国民は、公私の境界線を見分けることができないからです。言い換えますと、政治家とは、国民から委託された公的な仕事ではなく、自らの利益のために、他の私人や組織から寄せられる、あるいは、命じられた私的な仕事を請け負っているかもしれないのです。近年、国民の信頼を裏切るような政府の政策遂行が多々見られるのも、公的な職務よりも私的な職務を優先させているからなのでしょう(おそらく、何らかの見返りがあるのでは・・・)。否、移民政策の推進や過激なカーボンニュートラル政策、さらにはワクチン接種政策のように、後者を優先する余りに国民を犠牲にしたり、実害を与える事例も少なくないのです(国民が頼んでもいない仕事ばかりをしている・・・)。
また、「ジョブ型」のもう一つの特徴はその成果主義にありますが、政治家ほど、職務評価が及ばない職業もありません。国会議員は、議員報酬は一律同額ですし、実際の活動内容や支出状況にも関係なく国民の平均所得を遥かに上回る高額の議員歳費が支払われているのです(特に、‘グローバル・スタンダード’に照らすと、日本国の国会議員の報酬は顕著に高い・・・)。一方、国から支給される政党助成金の配分も、党内の序列や力関係によって決まりますので、こちらも成果主義ではありません。国民の政治的権利の平等性からしますと、各々の選挙区から選出された議員の立場は平等なはずですし、若手議院方が積極的に活動していたとしても、党内では、悪い意味での‘年功序列’が働いているのです(しかも、幹事長といった特定の党役員が同助成金の‘配分権’を握ると、党内を支配する権力の源泉となってしまう・・・)。
それでは、選挙に際して掲げている公約こそが政治家が遂行すべき国民から託された職務なのでしょうか。今日の議会制民主主義の制度では、これもそうとは言えなくなります。何故ならば、公約違反や無視は日常茶飯事であることに加え、現行の議院内閣制では、政府を構成する与党にのみ、公約を実現するチャンスも権力もあるからです。実際に、日本国の立法機関では政府提出の法案が大多数を占めますし、国会での与野党間の議論があっても、法案の修正には殆ど反映されず、最後は数で押し切られてしまうケースも少なくありません。国会での審議が無意味であるならば、政治家の‘お仕事’は、法案の決議に際して一票を投じるのみとなり、高額の報酬には全く見合わない職務内容となりましょう。
以上に述べてきましたように、今日の政治家は、職務内容、公私の区別、仕事の評価、報酬など、様々な面においてブラックボックス化しつつあります。その結果が、今日の日本国、並びに、世界各国の政治における混乱や民主主義の形骸化、さらには、グローバル化に伴う世界権力の‘悪代官化’等であるとしますと、現行の政治制度そのものを改良してゆく必要がありましょう。政治家の仕事とは、民意に添いながら国民のために統治機能を提供することにあるのですから、同職務を遂行するに適した制度こそ、考案すべきです。
「ジョブ型」を引き合いに出したのは、民間企業に対しては同形態に転換するように圧力をかけながら、最も改革が必要なはずの政治家という職については素知らぬふりをしている政治家の態度に矛盾を感じるからです(先日の記事で述べたように「ジョブ型」そのものにも重大な問題があり、お薦めできない面がある・・・)。少なくとも公僕としての政治家の職務を明確にし、各人の仕事を的確に評価し、かつ、何よりも、政治家の雇用主が国民である‘雇用形態’でなければならないのではないかと思うのです。