ディープラーニングの出現により、長足の早さで進歩を遂げているAI。生成AI技術の実用化も手伝って実社会においてもその存在感が増しつつあるのですが、同テクノロジーについては懸念の声も上がっています。AIが人の能力を超えるシンギュラリティーに達すると、人類は、AIに支配されるのではないか、という・・・。しかしながら、この懸念、杞憂に過ぎないかもしれません。
真剣に心配するに足りない理由とは、第一に、AIが人類を支配し始めたならば、即、電源を落とす、という単純明快な対処法があるからです。AIの唯一のエネルギー源は、人によって供給される電力なのですから、ボディーガードやSPなどに幾重にも囲まれた人間の暴君や独裁者を倒すよりも、ある意味で簡単です。安全対策として、人間がスイッチさえ握っていればよいのです。なお、より簡単な対応としては、AIから発せられた命令に対して、人類が無視を決め込むという方法もありましょう(人類には、AIに従う義務もなければ、AIにも強制力はない・・・)。
第2に、AIには、人類を支配する‘欲望’という感情が存在しないことです。AIには、感情も身体もありません。欲望というものが、人の感情が引き起こすのであるならば、AIには、権力欲も、支配欲も、金銭欲も、名誉欲もないはずです。古今東西を問わず、悪しき為政者とは、自らの私的な欲望に駆られ、あるいは、これらを満たすために権力を濫用するのですが、AIの方が、むしろこの心配はないのです。自らの快楽にお金を浪費する必要もないのですから、AIは、贅沢を尽くした暮らしのために人類を搾取しようとはしないことでしょう。考えようによりましては、私利私欲に走り、個人的な利権や利益誘導に悪知恵を働かせている人間の政治家よりも、‘まし’ですらあるかもしれません。
第3の理由は、人類支配は、AI単独ではあり得ないことです。このため、まずもって組織造りをしなければならないのですが、先ずもって、生きている人々を適格に評価し、自らの命令を忠実に実行する部下として採用・あるいは、登用する必要があります。現状にあっては、インプットされたデータに基づいて人事評価を行なう能力はあるのでしょうが、AIには、同データの真偽を見抜くことできないようです(AIは簡単に騙される存在でもある・・・)。もちろん、ロボットを部下にすればよい、とする反論もありましょうが、AIが自らの手でロボットを設計し、それを製造し得るとは思えません。
そして第4に、永続的な人類支配のための制度設計を自発的に行なう能力に欠けている点です。真にAIが賢ければ、自らが誤りをおかす存在であること自覚し(人間が入力したデータに誤があるリスクを認識・・・)、チェック・アンド・バランスが働くように権力分立を制度設計に組み込むのでしょう。つまり、ここに、AIは、神の如くに全知全能ではなく、あくまでも不完全な人間によるヒューマン・エラー、あるいは、フェイク・データを入力する人間の意思の存在という不可避的な制約があり、全ての権力を独占する独裁者にはなり得ないとする結論に至ってしまうのです(仮に、ヒューマン・エラーをAIが認識せず、自らを無誤謬と見なすならば、AIは、認知能力や判断能力としては人には及ばないと言うことに・・・)。
以上に、AIによる人類支配の可能性について述べてきたのですが、AIによって人類が支配される可能性はそれ程には高くないように思えます。もっとも、AIを利用した人類支配という形態はあり得るかもしれません。テクノロジーとは、それを使う人によって善にも悪にも貢献するからです。AIを操って全人類を支配下に置こうとする人物が、AIに冷酷で強欲な独裁者のパーソナリティー、あるいは、自らの性格をデータとして入力すれば、‘人類を支配するAI’が出現する可能性も否定はできないのです。このように考えますと、AIについては、それを利用しようとしている欲望の亡者にこそ警戒すべきではないかと思うのです。