原キョウコ ダンスセラピーラボ

ダンスセラピーという手法を通して心身の解放をサポートし、心と身体と魂をつなぐことを目標に、研究を重ねている場です。

グラウンディングすることは、「存在」と「生」を実感すること。

2012-05-15 | 身体/ダンスから学ぶこと
わたしのWSでは、
必ずグラウンディングのワークをする。

先日の大阪WSでも行った。

そして、みんながその状態で
ただ立っているとき

それは「存在」そのものが
「ここ」にいるんだ、という風に見える。

ひとりひとりが一本の樹のように。

そのときの空気感。
ただ「在る」ことの崇高さ。

それを、お互いに
同じ空間にいて感じられるということ。

言葉も思考を介さない。
存在しているということ、
生きているということの
圧倒的なチカラ。

それこそが、
「今ここ」であるといつも感じる。

まるで森の中にいるような気持ちになる。
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大阪WS4回目終了、そして今回の考察など。

2011-11-18 | 身体/ダンスから学ぶこと
11/11~12,
大正まろんプレゼンツによる4回目の大阪WS、
おかげさまで
終了致しました。

今回の場所、城東区にあるアトリエS-paceさんは
公演や、芝居の稽古に使われている場所。
タッパが高くて広々とした空間でした。

こまかく流れを追っていきたいけれど
プライバシーに触れる部分もあるし、
あの空気感は言葉ではとてもとても伝えることができません。
毎回そうなのですが。残念。

さて、
東京はもとより
大阪でもあらためて伝えたかったこと。

この不安定な時代を生きていくためには
マインドではなく、
身体という今生での「ベース」であり「ホーム」を微細に意識し、
感覚を研ぎすませて、
その中にしっかりと根を下ろすこと。
大地のみならず、自分という「存在」へのグラウンディングでもあるわけです。
まずは、ただ「在る」ということ。
それ以上でもそれ以下でもなく、「在る」ということは
すべてが満たされている状態でもあります。
それが自分自身の「軸」を育てます。


自我、というのはいわば水面上に出ている意識。
我々は通常そこを使って生きている。

その下には無意識という層があり、
身体はこことつながっています。

ですので、身体で気づいていたり感じていること、無意識的に行っていることを
いかに「意識化」して行くかが大切なわけで、
それに気づくと、世界の見え方や捉え方が変わってきます。

ここはとても重要なポイントで、
身体=無意識=直感というラインがつながること、なのです。
空(くう)になること。フィルターを外すこと。論理的に判断するのをやめること。
滞りに気づくこと。手放すこと。流すこと。
直感をキャッチし、信頼し行動する、ということが
今後は生きていくために非常に大切なことになります。

そしてさらに深い層には
集合的無意識というものがあります。
(ユング的にいえば今まで人類が生きて来た歴史が詰まっているわけですが)
人類に共通する意識。
(例えば多くの国で蝶を魂の化身として捉えている、など)

そこまで広くはないけれど、
グループ・ダイナミクスの中には
そのときの参加者同士が
ことばで何らか説明しなくとも
個を超えて、意識下で響き合ったり、共鳴したり、ある感情を刺激されたりと
いろいろなことが起こります。

そして特にダンスのようなノンヴァーバルでダイナミックでダイレクトな
コミュニケーションでは、実にさまざまなものが呼び起こされるのです。
深いところに在る悲しみや喜びなどが、
ことばにならない/名づけ得ないものたちが、
時空を超えて立ち上がってくるような瞬間が。
3次元と4次元が、混在しているような状態でもあります。

今回の大阪では、
そんなグループダイナミクスがはっきりと立ち上がり、
それゆえのグループ全体の「ワンネス感」が
これまでになく明確になりました。

「場」が育って来たことを、強く確信。

最終セッションの産後、
それぞれがエンジェルカード(フィンドホーンの)を引きました。

わたしは1回目はブランクカード。
引き直したカードは「Authenticity」でした。(確かなこと、信頼性、真正などの意)
まさに、まさにぴったりでした。


今回初めて来て下さった方、
リピートして下さった方、
参加いただきましてありがとうございました。

まろんさん、流星メンズのみなさん、いつも多大なるチカラをありがとう。

ヴァーバルには限界がある、とヴァーバルなセラピーをしている臨床心理士さんがよくおっしゃいます。
そしてノン・ヴァーバルでも、1対1のボディワークでは体験できないのが、
グループのダイナミクスとグルーヴ感。
今回も、その醍醐味と共に、暖かさを感じる時間でした。

次回は来春5月を予定しています。

そして来年からこのワークショップとは別に、
関西トレーニングコースを立ち上げます。

ダンスと身体を通して、魂とのつながりを深くしたい方、
ホリスティックな身体への学びを得たい方、
ぜひいらしてください。

詳細はまた掲載致します。


まろんさんも今回の振返りの記事を書いています。どうぞ読んでみて下さいな。
コチラ


来年も頑張るッス!!


読んで下さってありがとうございました。






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身体の記憶、身体の受難

2011-07-05 | 身体/ダンスから学ぶこと
昨夜は徹夜をして一睡もしていなかったので
今日はしびれるように眠くなって床についた。



夢を見た。
南三陸の避難所にいる。
さまざまなひとが、
暑さにも不便にもじっと耐えている。
だから避難民でもない自分もこの状態に耐えるのだ、
とか思っているうちに目が覚めた。



身体中にじっとりと汗をかき
いつ食われたのか、
虫さされのかゆみが耐えがたい。
暑いとはかゆいことなんだなあ、とぼんやり思いながら
諦めて、今起き出した。


精神医学の神田橋條治先生と電話で話したことがある。

先生は「身体は魂の具象化だ」と仰った。
身体は魂を苦しめるものになることもあるけれど
魂というものをとりもどすのが
ダンスセラピーである、と。

魂=宇宙の中で
<生命体>という異端の有様が生まれて来て
その中に残っているものが魂である、といわれたのだった。



あるひとにこんなことをいわれたことがある。
「キョウコさんは優しすぎる。受け取りすぎる、感じすぎる」

…決して優しいわけではないのだが。



そして昨日、
「シャーマンは人間の肉体を持っているのに
(肉体では受け止めきれないような)それ以上のもの(魂の部分)を受け止める。
だから肉体=人間としての部分が傷を負うのです。
でも、だからこそシャーマンなのです。
シャーマンは傷つくものなのですね」

と友人に言われた。


宿命、というニュアンスに、わたしには聞こえた。

ああ、と何となく腑に落ちた。



わたしが感じる何かは身体のことなのだけれど
身体=魂、
と感じることがしばしばあるからなのだ。


身体の奥にしっかりとある魂。
あるいは身体そのものを包むエネルギー。

身体は一般的な見方では非常に物理的で物質的なものだが、
わたしにはそれだけを感じるものではない。

そのひとそのものの、宿っている魂や
そのくすみ、傷ついている部分などが
理屈を越えて伝わってくるのだ。
(もちろん、ON/OFFはつけている)


きっと大昔のヨーロッパなら、魔女狩りされていただろう。


一般社会でこんなことを言ってもほとんど理解されないのは
いやというほど体験している。
怖がられたり、気持ち悪がられたりもするだろうということも。
なのでいつもは言わない。
でもなぜか今日はここに書きたくなっているので、書くことにした。

自分のことを、ヒーラーとか言い切ってしまえる職業のひとなら
ある意味楽なのかなあ。


さっき見た夢では
わたしは避難民ではなく、
現実と同じく一過性のボランティアという立場でいたけれど、
そこに住まう人々がじっと耐えているんだ、ということに同化し、
同じようにここで耐えるのだ、と
深い部分で思ったのだろう。
が、肝心の肉体は暑さとかゆみには耐えきれずに目が覚めたのだった。


どうしようもないこの生理的な感覚。
それこそが身体を生かすものでもあり、
この世界にグラウンディングしている身体たるゆえんだ。

この不自由な身体があるからこそ、
わたしたちはこの世界にとどまっている。


起きてすぐに、窓を開け
エアコンも稼働させた。


ダンスというメディアは、
身体を通して発信される。
セラピーの技法を通して
魂も共振させていく。
身体と魂が乖離していても
それをまた同化、調和させるのが
自分の仕事なのだと思う。


なので、こんな夢を見ても仕方ないなあとも思うが、
生理的なことがそれ以上、わたしに無理をさせることがなかったのかもしれない。


そして、アタマで考えている以上に
南三陸の記憶がわたしの身体に刻まれているのだなと感じた。


南三陸を訪ねたときの記事がまだなかなか書けないでいたが、
これでやっと書けるな、と今思っている。


昨日会った友人に
あなたにとって今まで会ったシャーマンとは?と聞いてみたところ
沖縄のあるユタの方とわたしなのだそうだ。


やれやれ。

でも、これを生きることを。これからもそうしていくであろうことを
わたしはどこかで覚悟し受容しているように思う。

もう、不必要なことまではしないけれど。



悲しみと喜びは背中合せのようなもので、
悲しみをどん底まで受け入れる覚悟をしたひとには
生きていることそのものが奇跡であるという
大きな大きなギフトが必ずやってくるということを
伝えておく。


そして、身体と魂を調和させて生きたいと思ったら、
傷を癒したり、身体の周りを覆っているくすみを取り除いたりするサポートをします。
(それができるのはご自分だけ。わたしはそのお手伝いに過ぎません)


身体を張って待っております(笑)



ああ、もう朝だ…!



今日もみなさまにとって、良き日でありますよう。


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揺らぎを生きよう

2011-04-04 | 身体/ダンスから学ぶこと
3/19にワークショップを行ったが、
前月に考えていたこの日のテーマは
「ゆらぎを生きる」だった。

あまりのシンクロニシティに、自分でも驚いた。


地震はわたしたちの生活基盤を
根底から揺らがせる。
盤石であるはず、あってほしい、
というわたしたちの勝手な思い込みを覆す。

同じことが
わたしたちひとりひとりにも起こっていると感じる。

通常の生活の中では
見えないこと、なかったこととして
ココロの奥底にしまいこんでいたものが
この揺らぎによって
浮上してくる。

それは人との関係の中でも
自分自身の思い癖としても浮上してくる。
大方は、ネガティブに感じられるものである。

奥底に眠っていた悲しみ、
寂しさや怒り、怖さなどが
いろいろなカタチをとって
出て来ている。

攻撃的になったり、
自分や誰かを責めてみたり、
衝動的な発言、行為が増えたり。

そしてそれらの多くは意識化されていないのだろうと思う。

「ひとを変えることはできないが、
自分を変えることはできる」
とよく言われるが、
自分が変わって行くというのは本当に難しい。

変化、変容というのは
外的な刺激や影響という
必然に迫られた要因がなければ
ひとは自ら変わろうとしない。

そういう意味で、
今回の震災は
われわれが
環境やエネルギーをあらためて考えるだけでなく、
自分の生き方や
考え方の癖を捉え直す、
大きなチャンスであると思う。

こんなに大きな、そして現在進行形の災害があって、
揺れないひとはいない。
西に住んでいる方であっても
不安をすでに感じていることと思う。

不安とは、たいていは「先取り」のものであり、
「漠然として」いるものだ。

また、いつもよりも浮上してくる感情や
何かや誰かへの批判や不満があれば、
しっかりとそれを見つめてみる。
そしてその正体を見極めてみる。
身体と動きを通して。


それだけのことだけれど
それを持続するのは簡単ではない。

自分を見つめることはこわい、という人も多い。
華やかなことや、何かに「酔う」ことでごまかす人も多い。

けれども、
それをしっかりとやることで、
心身の状態は少しずつ変わる。
少しずつでも、積み重なると本当に楽になっていく。

WSに継続的に参加してくれている方の中にも
変化の目覚ましい方達が
過去にも現在も、たくさんいる。

継続はチカラなり、を本当に実感する。
わたし自身も、だ。



長期戦になることは誰もが思っていることで、
社会の揺らぎはこれからも続いていく。

でも、その揺らぎの中を
揺れながら
できうる限りの最善の方法を探しながら、
試行錯誤しながら
わたしたちは生きていくのだ。

既存のシステムや制度にしがみつくのではなく、
硬直することなく、
自分の弱さも無力感も引き受けながら
揺れの中で臨機応変に生きていくのだ。

自分にとって本当に大切なものは何か、を見つめながら。


☆☆☆

4/29,30の二日間、大阪WSを開催します。

継続中の現在の体験をふまえつつ、
それを自分の血肉としていきます。
ワークショップにどんなふうに反映されるかなあ。

こういうときだからこそ、
気づけることがたくさんあります。
こういうときだからこそ、
身体のチカラを実感できます。

体験しにいらして下さい。

『表現と癒しの間で」vol.3
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震災9日後のダンスセラピーセッション報告。

2011-03-20 | 身体/ダンスから学ぶこと
震災から10日経った。


日々変わる原発の情報、
テレビでもさまざまなブログでも
放射能の飛散に関して
いろいろなひとがいろいろなことを言っている。
皆、疑心暗鬼になっている。
怒っているひとも多い。
それも不安の現れだな、と感じる。

首都圏では目に見える被害を被ったところは少ないが、
見えない恐怖である放射能への不安が、ひとの中に巣食っている。
見た目には平穏でも、いつ何かが噴き出してもおかしくないような
均衡のあやうさ、とでもいうものがある。

大きな地震がまた起きる可能性は大分低くなったが、
まだ余震もある。

ガソリンスタンドも未だ行列で、
パンや米、カップ麺の欠品も、今の時点ではまだまだあるようだ。

停電があるので夜は早く帰宅する人が多い。
(都内はまた違うかもしれないが)


そんな中、昨日3/19、予定通りワークショップを行った。

もし大きな余震が起きたら、ということがわたしにはいちばんの気がかりだったが
起きてもいない事態を心配することは少なくともこの3時間はやめよう、
と思った。

さいわい、停電もなく、電車も通常の7~8割で運行している。
前日に、「今向かっています」と東北の被災地の方から連絡があったが、無事に到着した。

始まるまでの時間、
「どうぞ横になってゆっくりしてください」と皆に声をかけた。

静かなピアノ曲をかけた。
それぞれが横になった。
穏やかな空気が場を満たした。

なんだか不思議な感じだった。

あとから何人かに聞いたら、
「家ではゆっくり寝ていられなかったけれど落着いていられた」
「安心していいんだ」と感じたと言う。


「場」を信じること。
まずはそんな空気からすでに始まって行った。

シェアは、必然地震のこと、当日どうしていたか、それ以後どんな状態なのかに話が及ぶ。

みんな心身ともに緊張し、どこか昂り、アンバランスな状態になったんだなあ、
とお互いのシェアを聞く。
この一週間はすごすぎて、それ以前のことがとても遠く感じる、というシェアに
本当にその通りだ、と思った。


アタマがぼーっとしたり、
気疲れしていたり、
背中がバリバリになったり、
呼吸がとても浅くなっていたり、
神経の昂りがおさまらなかったり、
被災地の大変さを思って、普通に生活することへの罪悪感に囚われていたり。

今、我々の身体に起きているそんなことを確認して、はじめた。

いつもよりも呼吸法の時間を長くして。ストレッチ。
緊張させて気づかないようにしていた身体の疲れや痛みが出てくる。
横になる時間を長くした。
眠るひとも多かった。

わたしの足を使って、みんなの背中をほぐした。
うつぶせに寝た方の背中にぐりぐりと。
ぐりぐりされているひとには声を出してねと言った。

こういうときには呼吸だけでなく、
コトバにも歌にもないような濁音じみた音が出るのがいいのだ。

皆の背中を踏みつけに(笑)していくうちに、
笑い声が出て来た。
ふにゃらけた身体が、少しずつふえていった。

ペアになって、
お互いの身体の重さをつかいながら、
さらに背中をほぐす。

こういうときに、ひとのぬくもりは、とても助けになることがある。
(※こういうときなので、それは避けた方がいい場合もある。人によります)

そして、
・体力を消耗せずに身体を温める
・神経の昂りを静め、下半身に重心を下ろす
・上半身/下半身をつなげる
・身体全体のまとまりを取り戻す

などのための技法を行う。

最後にはフリームーブメント。

立っても座っても歩いても
笑っても泣いても
動いても動かなくてもいい時間だ。


静かで穏やかで、でも力強さのある空間になった。


最後に、呼吸法とグラウンディングをして、締めた。


みんなの身体の状態が、
表情が、
見違えるほど変わった。

「身体の真ん中が通った感じ」と言った方がいた。

自分の身体の部分部分の感覚をしっかりと取り戻し
大きく揺らいだ地面のうえで、
ずっと揺らいでいた気持が
ニュートラルな状態に近づいたようだった。

大変な時だからこそ、
「いつもの~」ということが
いちばんだいじだ。

でも、
「いつもの気分」「落着いている状態」をキープするのは
こんなとき、本当にむずかしい。


この時間で分かったことは、
「身体から取り戻すこと」のほうがはやい、ということだ。


わたしは見守る役目なので
どっぷりとワークに浸るわけではもちろん、ない。

それでも、終わったあとに
身体の状態が地震のことをすっかり忘れてしまったような感じになっていた。

一晩明けて、
これを書いている今も
重心が安定し、呼吸が楽になり、
身体の奥に安心感が宿っているのも分かる。

安心感とは、
からだにまかせ、ゆだねることから生まれる。

十何年もワークショップを行って来たけれど、
この未曾有の事態の中で行ってみて
あらためて確認できた。

地面は揺れても、重力がある限り、
身体はしっかりとグラウンディングできる。


信頼感。
安定感。
というものが、
今のようなときに
それぞれにいちばん必要なことだ、とはっきりと感じられた。

それは不安を「払拭」するというレベルではない。
「軸」を取り戻すことだ。

「軸」があれば、
冷静に情報を選択できる。
いざというときの判断力、
そして直感を信用できる。

最終的には、自分が選んだことに責任を持つ、ということにつながる。


息を吹き返したからだとともに、
これからの長丁場を歩んでいこう。
こういう時間を必ず持ちながら。


次回は4/3に、ワークショップを行います。


付記:
これを午前中に書き上げたあと、
急激な眠気がやって来て
午後から夕方まで4時間ほど眠った。
身体が緩んだことへの反応が如実に現われた。



<記事の無断引用・無断転載を禁じます>
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太古の海のような 生き物の記憶

2011-02-21 | 身体/ダンスから学ぶこと
わたしのWSでは、
毎月テーマを設定して行っている。


身体が、毎日防衛として行っている
緊張状態を少しずつ緩め、
そのときどきの、ありのままの状態に戻って行く。

今回は脱力により感じられる重さにフォーカスして
前半はそのワークを繰り返し行った。

が、そのときに参加する方の状態により
同じことをしていても
各自のプロセスはそれぞれに違ってくる。
気づきはそのひとにより違う。
同じことを何度もやっても毎回感じ方が違う。
それは今の自分を感じるための指標となる。

いつも、大まかな内容はもちろん準備して行くが
ココを目標として全員こっちを向きなさい、というやり方は
好きではないし、
そのときに生まれてくるものを大切にしているので
インナージャーニーをしていく方向は
ひとそれぞれになるのだ。

が、それぞれの身体が動き出し始めると
何かが流れ出してくる。
その流れを見ながら微調整をしていくのが
自分の仕事のひとつである。

そして、「場」がひとつの生き物のように見えてくる。
その中にはさまざまな細胞がうごめいている、というような。
ひとつの生き物の中にはこんなにも多くの細胞があるのだ、というような。

昨日もそんな瞬間があった。

ひとりで踊っていたり
ふたりで踊っていたり
そのなかを巡って行くひとがいたり、
踊りはそれぞれなのだが、
ひとりひとりからさまざまなエネルギーが流れ出す。影響し合う。
やがてひとつの大きな流れとなる。
違う動きをしていても、違うイメージの中にいても、
総体的にひとつのエネルギーとなるのだ。

終わりのシェアの時わたしはこう言った。

「まるで太古の海のようだった。
原初的な生命体が、海の中で生まれてくる。そしてまた消えて行く。
そんないのちの受け皿の、太古の海のようだった」と。

前半の終わり、
脱力のワークを床の上で何度も行って
重さを引き上げて立ち上がるワークをし、
それぞれの身体がしっかりと大地にグラウンディングして
立っているさまは、
まるでイースター島の石像のように見えた。
規則性はないけれど、
連続性のある絶妙な配置だった。

誰もが、どっしりと、そこに確かに「存在」していた。

「周りを見渡して下さい。これがダンスなんです」と
わたしは言った。

参加者のひとりがあとから
「あのとき首筋がぞぞっとした」、と言った。


身体の中には太古の記憶もあるのかもしれない。
集合的無意識も、ずっとずっと眠っているのだ。

それが、踊ることによって顔を出し、
そのものになっているひともいる。

ひとりひとりの感情も
柔らかく包みながら。


「場」の空気は
皆が出したエネルギーによって、
さまざまな成分の溶け込んだ「温泉」のようになる。

すぐには気づかなくても、
何かがまた生まれでたのだろう。

そしてそれぞれの生活に戻って
その何かと向き合い、育てて行くのだろう。


わたしは、こういう時間が本当に大好きだ。



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大野一雄さんへの感謝を込めて

2010-06-02 | 身体/ダンスから学ぶこと
大野一雄さんが亡くなりました。
享年103歳。

お見事!です。
病を得てからも踊られていたそうです。

大野さんの舞台を見て、
折りに触れ思い出すにつけ、

とにかく生きている限り
踊り続けよう、
といつしか思っていました。

おばあになっても。
ヨレヨレになっても。
身体が動かなくなっても。

もう大分前ですが、
セゾン劇場で大野さんを見かけました。
舞台にいるときとは違い、
足許もおぼつかないくらい
ヨレヨレでした。

そしてその後、車いすの生活に入られました。

それでも彼は踊っていました。

彼の踊りがなぜこれほどまでに絶賛されたか。
それは
魂が踊っていたから、だと思います。

表面だけの美しさではない、
テクニックでもない、
見た目ではない。
動きのカタチでもない。

彼の中のタマシイが
踊りというメディアを通して
身体という器を通して
立ち現われていたのだと感じています。

昨年、ピナ・バウシュが亡くなったときには
とてもショックで
コトバもでない感じでした。


大野さんの訃報を聞いて、
今は涙目です。

悲しい、というのもちょっと違う。

本当に真摯に
踊りを通してタマシイを見せて下さった大野さんへの
感謝の気持が
涙になっています。

そして、
ワークショップや
合宿のときに
参加して下さる方達の
タマシイの踊りを思い出しています。

タマシイのままに踊る。
あんなに美しいものはありません。

こうして、
踊りのサポートを生業とすることができていることにも
本当に、感謝です。


わたしも踊り続けます。

そしてこれから出会う方達とも
タマシイの踊りを分かち合って行きたいと
あらためて感じた今宵です。


大野さん、本当にありがとう。


コトバにできない思いでいっぱいです。


*******以下、報道より

訃報:大野一雄さん103歳=国際的舞踏家



世界に「BUTOHブーム」を巻き起こし最晩年まで踊り続けた
国際的な舞踏家の大野一雄(おおの・かずお)さんが1日午後4時38分、
呼吸不全のため横浜市内の病院で死去した。
103歳。葬儀の日取りなどは未定。

北海道出身。日本体育会体操学校(現日本体育大)在学中に 舞踏家を志した。
卒業後、横浜市の女子高に体操教師として勤める傍ら、
モダンダンスを習い始めた。
第二次大戦中は召集されて中国などを転戦。
復員後の49年、舞踏家として初公演。
以後も教員として働きながら、活動を続けた。

60年代に土方巽さんと共に、白塗りの化粧にすり足というスタイルで、
日本の大地に根差した前衛的な舞踏を作り上げた。
土方さんが「暗黒舞踏」と称されたのに対し、
大野さんは即興性を重視した「魂の舞踏」と呼ばれた。

80年「ラ・アルヘンチーナ頌(しょう)」を
フランスのナンシー国際演劇祭で舞い、絶賛を浴びた。
以後、海外公演が相次
ぎ、世界の「カズオ・オオノ」として名声を確立する。
他の作品は「わたしのお母さん」「花」など。

100歳を超えても舞台に立ち続け、
最晩年はアルツハイマー症とも闘ったが、踊りへの意欲は衰えなかった。
99年、イタリアのミケランジェロ・アントニオーニ芸術賞。
息子の大野慶人さんも舞踏家。
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「踊るように生きろ!」

2010-01-22 | 身体/ダンスから学ぶこと
WSを続けていると
その時々で
いろいろなテーマが浮上してきます。

その中でも、
何回も出てくるテーマがいくつかあります。

「踊っているときはこんなに気持よく過せるのに
どうして日常は息苦しいのだろう?」ということも
そのひとつ。

さまざまなタイプのダンスのWSがとてもふえたので、
踊ることの気持良さやカタルシスは
今では多くの方が知るところだと思います。
(専門的にやれば、当然苦しいこともあるわけですが)

特に型のない、
フリースタイルのWSでは
それまでダンスと縁がなかった方も
(初めはおそるおそるですが)
身体がのびのびと動いていくことで
大きな開放感を感じていきます。

ダンスというのは
「祝祭」の側面も持っていますから、
当然ですね。
「ケとハレ」でいうなら「ハレ」であり、
「過剰」であるエネルギーを「蕩尽」する行為でもあります。

日常ではできないことができるから、
気持いい。
ということがあるわけです。

けれどそれだけではただの発散行為です。
もったいない。

トランスして終わり、というワークは何だかな、と思います。

むしろ、
日常とダンスしている自分と
何がどう違うのか?
ということに意識を向けてみる。

すると気づくことがたくさんあります。

いつもはいろいろなことを「禁止」していることに気づいたり、
自分が自由であってはいけなかったりするし、
そういう環境にいないから、と思ったりします。
ひとは、いろんな理由で自分をがんじがらめにします。

じゃあ、どうしたら
踊っているときの自分に近づけるのか?
ということを
それぞれが考えたり
悩んだりすることが
だいじなことと思うのです。

踊っているときの身体は正直で、
それにいい/悪いはありません。
固かろうが、動かなかろうが。

「思ったように動かない」というジレンマを感じるのも
思いや理想が先行して、強すぎる場合もあります。

自由だと思っていたはずが
ものすごく不自由な自分というところに
辿り着いたりするパラドックスもあるわけで、
(私はしょっちゅう…)
それならそれを生きるだけなのです。
右往左往しながら。
揺れながらバランスをとりながら。

生きて行けば行くほど、
プライドやしがらみや立場や
いろんなものを身の回りにくっつけてしまいますが、
ダンスはそれを削ぎ落とす行為です。

シンプルな自分の、コアな部分が立ち現われてきます。

それはエッセンスのようなものです。

あなたとか、わたしのなかの、
とてもシンプルで美しいなにかです。

繰り返し言いますが、
そのなにかは
いい/悪いなどという
小さい尺度で測れるものではないのです。

そのエッセンスを
生きること。

それが「踊るように生きろ!」なのであります。


…伝わるかなあ?

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みみをすます。

2009-05-07 | 身体/ダンスから学ぶこと
前半はよく晴れて気持のいいGWでしたね。

さて、GW直前のある日、
女神山合宿のDMミーティングに行きました。

デザイナー、プランナー、コピーライターのチームと
毎年、DMのキャッチコピーと
デザインを話し合って決めます。

さて、今年のコンセプトはどんなふうに考えている?と聞かれて
私が答えたのは以下のようなことでした。

以前、入院していたとき、窓の外に大きなポプラの木があり、
それが何かをささやきかけてくれているような気がずっとしていたこと。

そして、先日阿修羅展を見に上野に行った折、
ある樹を見て何か語っている、と感じたこと。

都会の中でさえそんなことを感じることができるのだから
女神山という
本当に自然に恵まれた土地の中で
人間は自然の中で生かされていることを
しっかりと感じ、
そしてたくさんの樹のささやきを聴き、
そのささやきに語り返すように踊れたら…


すると、彼らはびっくりした顔をして
実は今までこんな話をしていたんだよね、
と彼らのしている仕事の話をしてくれました。

「私の森.jp」というプロジェクトがあり
そこで文化人類学の竹村真一さんという学者にインタビューしたこと、
(とても面白いのでぜひ読んでみて下さい♪)
そして、「樹」が如何にこの地球や私たち人間が生きて行くために
大きな役割を持っているかということ、
「サクラ」というコトバの語源など、
など
ここでは書ききれませんが、
とてもとても示唆深い「樹」や「森」についての
さまざまな話題を提供してくれたのでした。

とても楽しいシンクロニシティでした。

感じていることにみみをすます。
起きていることにみみをすます。


気づかなければそれまでだけれど、
感じたり、考えていることや、起こることに
意識をフォーカスすると
こういうシンクロニシティが実はけっこう起こっている。
さりげなく、ね。


そしてばっちり、
コピーも今年使う写真もきまりました。
今は印刷に出しているところですが、
出来上がりが楽しみ!

ハガキから、森の匂いが届けばいいなと思っています。


人間は
「天と地を結ぶ者」と
私は思っています。

大地からのエネルギーをいただき、
身体を通過させ、
そのエネルギーを天に送る、或いは帰す。
それは感謝の気持でもあると思うのです。

人間が人間だけで生きている、
という驕りを捨てなければならない時代です。

この夏は
女神山で
天と地に感謝の踊りを捧げましょう!
みなさまの参加をお待ちしています。


お知らせはもうすぐアップします♪




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ダンスと身体について。

2009-02-04 | 身体/ダンスから学ぶこと
身体に触れることは、
心に触れること、と思う。

身体を大切に扱われることは
とても嬉しく感じられること。
人を大切に扱うということは
自分を大切に扱うということ。

そして、
少々荒削りな動きであっても
人に触れるということは
世界に関わりを持つ、ということ。
触れ方で、
世界との関わり方が見えてくることがある。


そしてダンスは
特別な身体能力を持った人のためだけではない。
見せるためだけのものではない。
オリンピックのように点数なんかつけられない。
金メダルは、それぞれの中にあるから。

何だかわからないけれど動きたい、
何かがカラダの中で動いている、
と感じた時
それを受け止めて
そのままに表すことがダンス、でもある。

動かないこともダンスである、

そして、
葛藤こそダンスの原動力になったりする場合もある。

ダンスは
リズムに「合せて」動くものでもないし、
楽しいだけのものではない、

自分と向き合う作業だったりする。

エアロビ的なものとはあきらかに違う。

でも
その葛藤や矛盾を受け止めて
それを動いてみることで
見えてくるものがたくさんあります。

ピナ・バウシュというドイツの振付家のドキュメントに
「こわがらないで踊ってごらん」
というタイトルの本があります。
とてもすてきな振付家であり、ダンサーでもあります。

どうぞ、
自分を生きることを
(踊ることを)
恐れずに
遊んでみて下さい。

自分の感覚に
誤摩化しなく生きている姿は、
泣いていようが、笑っていようが、
それだけで美しい。
生きていることは、本当に美しい。


と、わたしは思っているのです。
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心地よい疲労。

2009-01-30 | 身体/ダンスから学ぶこと
先週末、
ワークショップをしに関西へ。

初めての場所で、
初めてお会いする方がいる。
回を重ねつつある方もいる。

いずれにしろ、
毎回が初めての体験でもあり、
その日だけの「一期一会」だ。

手がかりになるものは
からだと動きと感覚だけ。

皆いろいろな日常の片鱗を
カラダの中に携えて来る。

調子がいいときも
悪いときもある。

場がかすかに緊張している。

けれど、
それもありながらの人間であり、
場でもある。

動いているうちに
空気が変わって来る。

そこにいる人たちの
身体や顔の表情も変わって来る。

まとわりついていた「殻」や
「重さ」が少しずつ薄くなってゆき、
その人そのままの固有の身体が表れ
そしてエネルギーが
流れ始める。

生きているということは
エネルギーの交流、交感である。

だんだんに、
お互いのエネルギーを感じ、
それが場を作っていく。

そのプロセスに
注意深く立ち会うのが
自分の仕事でもある。

晴の日や雨の日、
いろいろな時がある。

素材の素晴らしさを活かすためには
さじ加減も変わる。

人それぞれの、
持って生まれた素材を
私はタマシイと呼ぶのだけれど、
それを最大限に生きてもらうためのアレコレや
いろいろな素材が
いろいろな組み合わせで
びっくりするくらい
美しい瞬間や
エネルギーのミキシングを
見せてくれることがある。

それぞれが
それぞれを
生きている。

喜びも、
悩みも、
生きている証しだ。


そんな瞬間に
立ち会えることが
本当に嬉しい。


今回も
そんな時間を味合わせていただきました。

この仕事をしていられることが
本当にありがたい。


参加して下さったミナサマに、
感謝。

自分も、
久しぶりに踊りで汗をかき
ダンスってやっぱりすごくいいなあ、
と感じられる時間でした。
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「病」の意味を考える

2008-07-02 | 身体/ダンスから学ぶこと
私の行っているワークショップには、
必ずしも健康状態がよい方ばかりが見える訳ではありません。

調子を崩していたり、仕事で燃え尽きそうになっていたり、
人生のターニング・ポイントで心身に大きな変化を感じているときなどに
訪れて下さる方がいらっしゃいます。

ココロの病もカラダの病も大変に辛いものですが
あるDr.のことばがとても印象に残っています。
それは、「病はギフトです」ということばでした。

日本語には「病を得て」という表現がありますね。
そして「一病息災」ということばもあります。

病気になることは
病というカタチで自分にメッセージをくれている、と私は思います。
病気になることで
今までの自分の生き方を振返ったり、じっくり考えることができるし、
周囲の人にどれだけお世話になっているかを感じるチャンスでもありますね。

そして、病気ではないまでも
日常の小さな身体症状(肩こり、姿勢、不全感)なども
カラダが送ってくるメッセージです。

個人セッションのときには
そのようなカラダのメッセージを細かく感じてみて、
痛みと対話することで
その方にとって生きるためのヒントが出てくる場合があります。

また、グループセッションでは
気づいていなかった身体症状が出てくることもしばしばあります。
痛いことは困る、だから痛みをとりさりたい、と思う方もおられますが
単に痛みがなくなったことを喜ぶよりも
自分のカラダがどういうときに痛みをメッセージとして送ってきたか、
ということや、どのようにしたら痛みがなくなったのか、
ということを考えてほしいと思うのです。

身体症状も病も自分の中に生み出されたものです。
ネガティブなものとして捉えずに、
そのメッセージの意味を考えたり、
自分のあり方に「気づく」ことは
私たちの人生を豊かにしてくれるものです。

そしてあたりまえに何かができることが
どんなにすばらしいことか、
カラダに時々感謝をして下さいね。
そうするとカラダは頑張ってくれるようですよ…
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