原キョウコ ダンスセラピーラボ

ダンスセラピーという手法を通して心身の解放をサポートし、心と身体と魂をつなぐことを目標に、研究を重ねている場です。

【 先日のWSのこととか、8月以降のスケジュールとか 】

2024-07-23 | 身体/ダンスから学ぶこと
日曜のWS無事終了しました。
参加の方が自身に正直になって
ありのまま、感じたままを表現できる場を
保証することがまず大事なことと思っている。
それは時に苦しいこともあると思うが、
それを突き抜けた先に違うものが見えてくることがあるのよね。
そして、なんでこんな動きをするのか?ということの
答えがある日突然やってきたりとか、あります。

インプロで踊るって
自分への予言のようなものなんだよな。
あとで答え合わせになることが少なくない。
無意識の力はすごい。

心身ともに不調なことがあっても
それを「点」として見るのではなく、
連続する生の一部として捉えられるかどうか。
それは生きてきた軌跡であり、
自分の中にある生命力を感じることでもある。
そして誰かや何かの存在まで感じられたら素晴らしいよね。
見えない存在、
今ここを少し離れたところから見守ってくれているもの。

何か役に立つことやすごいことができる、とかではなく
今まで気づきもしなかったことが
ふっと見えるような瞬間が増えてくるといいです。

それができると自ずと感謝の念を持って
様々な存在と交流できるようになると思う。
誰かに何かをしてあげることで
自分の存在価値を確かめるのではなく、
人間やそれ以外の何かと循環できること。交流できること。
それが自然にできるときは無理がないよね。
心身も気持ちのいい状態になる。
ニュートラルな状態を知り、いつでもそこに戻れること。
これはベースキャンプのようなもの。

先日の舞台でのインプロダンスで自分が何を意識し、
体験したかという話をしたので
今回のシェアはいつもより長くなってしまったけれど、
参加の方たちのそれぞれのシェアを通して見えないバイブスが交流し、
場を作っていくあの感じがたまらなく好きです。
今日は自分もその一員となれました。

そこに誰がいようが、
自分のことにちゃんとコミットできる空間。
かと言ってバラバラではなく
何かが交流している空間。
そんな感じがあった回でした。

アフターで参加の方と色々面白い話をしました。
ー続くー

< 今後のスケジュール >

首都圏WS、8月はまだ場所が取れておらず(キャンセル待ち)
8月後半にギリギリ取れるかどうかです。取れ次第アップします。
9月は16または21
10月は6.26.27のどれかで行います。

そして清里「シャーマニックエナジーダンス合宿」は
10/11~13(金土日)です。

初めての方で参加希望の方は
できれば事前に首都圏WSまたはダンスレッスンを受けてください。


平日夜はダンスレッスン(初心者向け)をやっていますので
そちらもご利用ください。

★ダンスレッスン(月火水金)やっています 
(グループレッスンではありません)
平日夜は溝の口にてダンスレッスンを行なっています。
ダンス経験は不問です。
・舞踏的身体
・リズムトレーニング
・個人的に希望する内容
のいずれか、または組み合わせてできます。
お申し込み時にご希望をどうぞ。
開始時間
18:00 18:30 19:00のいずれか
レッスンは2時間/3000円 (スタジオが小さいので3名まで。
別途スタジオ代2時間800円)
お一人のお申し込みでも大丈夫です。
ご希望の日時(複数あげてください)、
お名前、携帯番号をメールか
FBメッセンジャーにてお送りください。
その方のレベルに合わせて行なっていますので
初めての方でもご安心いただけます。
気分をスッキリさせたい時、
気楽に気軽に動きたいとき、稽古を重ねたい方もぜひ!
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【 病というプロセスを生きるということ 】

2022-08-23 | 身体/ダンスから学ぶこと
病を得たということと真摯に向き合い、
その苦しみも悲しみも引き受けることでしか
見えて来ないギフトというものがある。

病は健康の対極にあるものではなく
健康の中にも病は含まれている。
生きるものは必ずどこかで病う時があるのだから。
そしてそれを経過することが
身体全体にとって必要なことである場合がある。

病を自分に不利をもたらすもの、
生産的ではないと捉えることで
それは害毒にしか過ぎなくなってしまい
病というものを考える上での本質的な部分から遠ざかり
自分自身が引き裂かれることにつながることもある。

その体験を得て(決して楽ではないが)
その上で心身をどう捉え直すのかが必要。
それまでの自分の尺度では測れないことなのだ。

病はそれに真摯に向き合ったものに対しては
違う視野をもたらしてくれる。
今まで見えていなかった地平が見えて来る。
そこまでの道のりは苦しいものかもしれないが
それはその通過点の向こうにしか見えないのだ。

病という旅の途中で深い絶望に陥ったり
もう全てを投げ出したい、という気持ちになることもある。

しかしそれを食い止めるのは
自身の身体についてどこまで深く感じ、
思いやれるか、何をするのかということ。

身体についての思いを巡らしてたどりつくのが
本来の心ではないか。

病を癒すこともなかなかに辛いプロセスだが
その辛さのプロセスが病というものの本質なのかもしれない。
我々に、そういう体験を与えてくれるものとして。
そして気づいたら違う地平を見せてくれている。

怖いもの、悲しきもの、辛いもの。
そこから逃げていればそれはいつまでも遠ざけたいことになる。
しかしそれらも自分自身の一部であることを
他ならぬ自分自身が認めていくこと。
大きな意味での自然の営みの一部である病というものに、
自分自身が沿うことができるかどうか。

病を受け入れる覚悟をし
苦しみながらもその道を歩むとき
病は駆逐するものでもなく、敵でもなく
受け入れることで新しい何かを見せてくれるもの
ということに気づくのだろう。

※病という言葉を
自分自身が今持っている苦しみやテーマ、
「自分」「症状」ということにも置き換えても同様。

それらは決してマイナスな体験ではなく
それを受け取ることにより新たな豊かさにつながるのです。


(4年前に書いたものに加筆、訂正)
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【 なぜ身体感覚を磨くことが生きる上で重要なのか? 】

2022-05-30 | 身体/ダンスから学ぶこと
【  なぜ身体感覚を磨くことが生きる上で重要なのか? 】


★ ダンスセラピー 大阪WS vol.24  お申し込み受付中です! 

身体感覚には外部/内部/内臓など、
細分化すると色々ありますが
このWSで扱っているのは
主に外部と内部の感覚です。

外部からの刺激に対して
五感を含め身体の表面はどのような反応を示しているのか。
また、内部ではどういう感じが起きるのか。

刺激の強い社会ゆえに
感覚が鈍っている方は少なくありませんし
それに蓋をしている方も少なくありません。

しかし、「今 自分が何をどう感じているか」
ということをオンタイムで感じられると
自分にとって好ましくない場所を避けることができたり、
無理と我慢を重ねて体調を崩したりすることも
ぐっと減ります。


あるときこんな体験をしました。
友人と話をしている最中、
急に胸のあたりがモヤモヤと不安な感じがして
足がゾクゾクと冷えてきました。
不安になるような話題ではなかったので
おかしいなと思いましたが…
そのあとふと家族にメールをしました。
今から来れば?と。
するとすぐに電話があり、今さっき事故を起こしたとのこと。
幸いにも人身ではなかったので
胸をなでおろしましたが
先ほどの身体の反応はこれだったのか、
と腑に落ちました。

いわゆる「虫の知らせ」ですね。

眠っているときに見る夢と身体は無意識に属するものです。
また、変性意識状態の時も無意識に近づきます。
思考に邪魔されず、入ってくるものを受け取れる領域です。
思考ではなく感覚にフォーカスする身体の作業を続けていくと
自分の心身の状態がずいぶん変化していくのがわかります。

何が本当で何が正しいのか、ということの見分けが難しい
今のような混迷した時代には
自分自身の感覚を磨くというのはとても大切なこと。

そしてそれはグラウンディングしつつというのが必須です。
(意識だけ飛ばして身体がお留守になる変性意識状態だと
都合のいいヴィジョンを見る例も少なくないし、妄想的になりやすい)

「自分の身を守る」というのは
身体の外側に鎧をつけることではなく
内側の感覚を育てることなのだと思うのです。

情報に惑わされずにおかしなことはおかしいと感じる能力も
自ら育てなければなりませんね。

ヴィジョンや直感だけでなく
それに伴う身体がどういう状態になっているのか。
それも観察していくと
自分自身の傾向や強い部分弱い部分などのデータが
明確に蓄積されてきます。

自然とつながることができるとさらに視野が広がります。

大阪WS 、まだまだお申し込み受付中です。
初めての方も歓迎です。

今回は
人間-自然-社会をつなぐ
現代シャーマニズムの技法や
舞踏と微細なエネルギーをつなぐ
技法など行う予定です。

変化と不安の時代にこそ
身体に立ち戻ることを強くお勧め致します。

大阪WS詳細はこちらから!↓

https://blog.goo.ne.jp/kyondance/e/af20138537c4b4ede6902c8490c9af2e


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新ダンスクラスの参考動画

2021-03-22 | 身体/ダンスから学ぶこと
新ダンスクラス「きびしいお稽古」(リズムトレーニングの方)
参考動画です。

なお、時間帯は
平日の場合18:00~21:30の間となりました。
土日の場合も
ご希望の日時を書いてお申し込みください。



この動画で見るべきは
自分の身体の中のgrooveをつかむ
身体ごと楽しむ
周囲とgrooveする
しかし何があってもリズムは外すな
です。
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生きものとしての身体を取り戻すこと

2021-03-09 | 身体/ダンスから学ぶこと
3/6のWS無事終了。

初参加の方もエンジョイしてくれてよかった。
やっぱり深呼吸が本当に大事。

呼吸をして動くことで
身体の状態がガラッと変わる。

本日は肘、膝を緩ませて
ひねりとねじりを使いながらの稽古。
終わった後の身体が本当に心地よい。

久しぶりにペアワークを行なったが、
他者と共に動くことで自分の身体の動きづらい部分や
緊張しやすい部分がわかる。
また、人の身体のぬくもりも感じられる。

生きものとしての身体、を取り戻す稽古。

身体という最も身近な自然のことを
私たちは本当に知らない。
それを呼吸と動きを通して確かめていく。
地味だがこういう稽古はやはりとても面白いし
好きなのだ。

WSの時、たまたまその日に集う人たちの話を聞き
それぞれが持つ課題を感じ
では共通するテーマはなんなのだろうと考える。
出てくるものはいつも予想外のことなので
とても面白い。

それにより内容を変更したり、
新たに組み立てたりする。
こういうプロセスが場を見立てる力をつけてくれる。

自分のWSでは
ひとつの正解があって
それに近づけるという方法は取っていないので
予定調和というものはない。

身体のどこが感じる力を失っているかもわかる。
それはちょっとショックなことでもあるかもしれないが、
人間社会の中で生きていると
そこでのルールに合わせることを優先し
おのれの感覚を閉じてしまっている、というのが
ほぼデフォルトになっている。

だからこそ取り戻す時がとても必要。
その日にそれぞれの方が身体と動きを通して
どう気づくか
何を見つけるか。

そういうプロセスを
それぞれが味わい
その場というものを皆で味わう。
振り付けのあるダンスでも
それを真似し、覚え、
その上で動きを解体し
自分のものにするというプロセスがいる。

それをやると振り付けであろうが
自分の身体で昇華した(消化もした)
踊りとなるのだ。

WSを終えてから
参加の方達と多岐にわたる話をしたが
最後の方はシャーマニズムの話になったのが大変面白かった。

*******

以下上半期のスケジュールです。

<首都圏WS>
4/3土曜
5/9日曜
6/12日曜

<大阪セルフケアWS>
3/29月曜 お申し込み受付中です。
FBにイベントページあり。お申し込みはこちらからどうぞ。
https://www.facebook.com/events/347100859896706/

<大阪ダンスセラピーWS>
6/5−6土日



















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無為/無心/身体と重さと世界との関係

2019-10-29 | 身体/ダンスから学ぶこと
日常の中で思うに任せずぼんやりとしていると
自分には何もない、と思うことがある。

しかし踊っている時と自然の中にいるときは、
自分には何もないが全てがある
(言語化すると陳腐だが)と感じていることがある。

そこでは「自我の檻」の中にいないからだ。

境界線がほどけていき、
世界とともにそこにあり、
世界とともに呼吸しているような感じになる。
そこの一部になる感覚。
自分というものも消える。

踊ることは子どもの頃、
しゃがんでアリの行列ををじっと見ていたことや
タンポポを摘んだりしたのと
同じ行為だと思う。

無心であること。
特別な身体を「作り込んで」することではなく、
自分のなすがまま、あるがままをでいてみること。
それをただ感じてみる、ということだ。

だから誰もが踊ればいいのに、とつくづく思う。

だいぶ昔のことだがWSに初めて来た方が
身体ほぐしなど一通り終えてムーブメントの時間に入ったら、
最後まで1時間ほど座ったまま動かずにいた。
終わってから「世界一周をしていた」、と話された。
こういうことが今でも起こる。とても面白いことだ。

身体とイメージが結びつく時空。
「ここ」ではないところで。
同時に「今ここ」で。

ただし、こういうことが起こるにはウォームアップが必要で、
それがいつも私が行う身体ほぐしなのだ。
これはシンプルながら非常に奥深くを掘り起こす。

ある時も、ムーブメントの30分ほどを
微動だにせず立っていた方がいて
おそらく樹になっているのだろうと思ったが、
そうだったとのこと。
なんの身体訓練もしていない人が、
微動だにせずただ立つ、立ち続けるというのは
本当に難しい。
空になるか、何かになっているか、
ひたすら重さやバランスを体感しているか。
そのどれかの状態になっている時にそれは持続する。

これでいいのか?どうしたらいいのか?正しいやり方か?
これで合っているのか?と思考のジャッジが入った途端
保たれていた平衡は崩れる。

踊る、ということは
「そのままに在れるか」ということでもあるし、
「自分ではない何かになること」でもある。

それはもう物質対非物質、
みたいなこともすっ飛ばす。
どちらでもあり、どちらでもないのだ。

それをもっと多くの人に体験していただければと思う。
「ノンデュアリティ」に近いのかもしれない。

人の前で動くことを恐れる人もいるわけで
それは見られること=ジャッジされることになっているだけで
その人の中の問題であるだけだし
何かを掴める瞬間というのはとても無意識的なものであって
動きに集中している時
動きそのものになっている時
あれ?今のはなんだ?みたいな体験をする。
それを言語化したり、誰かに指摘されたりして
自分の意識と結びついた時に腑に落ちる、ということが起きる。

そこには世界と自分(自我ではない。身体もエネルギーもひっくるめた、存在としての)
の関係しかない。

肉体というこの不自由なもの、
そしてその重さと不自由さを知ること
不自由を通してしかでき得ない
その崇高さや不思議さにこうべを垂れない限りは
(あるいはsurrender)
重さに”制限”されない世界、
新たな世界に
触れることは始まらない。

パラドックスのようだけれど、そうとしか言えない。

しかし、
世界と自分との新たな地平が広がってくると
世界との関わり方が変わってくるのだ。

それこそが私たち自身がなんども変容を繰り返し
手に入れるべきものだ。

(写真は先日行った山の中の聖地であります。
恐れを感じるほどに静謐な空気だった。)

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【アジールとしてのダンスセラピー レポート】2019/10/20

2019-10-22 | 身体/ダンスから学ぶこと
東京での一日WS
「アジールとしてのダンスセラピー」
終了致しました。

参加のみなさま、サポートの真由美さん
ありがとうございました。

ふんわりじんわりとしながらも
深いところでのセルフケアとなった方もいらしたと思います。

・身体の痛みがみるみるうちに取れた
・身体の内側にエネルギーが満ちていく感覚が体感できた
・場のエネルギーが感じられた
 人だけではなく大地や太陽のエネルギーも引き寄せられてきた感じ
・いつもは感じにくい身体の感覚が蘇った
・身体と心がつながった
・シンプルでニュートラルになった
・自分への理解が深まった
・大いなるものからのメッセージが心にしみた
・グループワークの良さを十分に味わえた
などの感想をいただきました。

今回のWSの内容を考えている時に
いくつかのキーワードが浮かんできましたが
その一つが「分断」でした。

どんどん分断の酷くなっているこの社会。
まずは自分の内側で分断が起きていないか。
あるいは上半身と下半身で分断が起きていないか。
自分と何かの間で分断が起きていないか。
個人的な問題も世界の問題とつながっています。

自分自身を大切な「アジール」とし
その聖域を少しずつ広げていくこと。
周囲の人を巻き込み、
お互いに思いやりの持てる社会にすること。
地道ですが一人一人が本気でそれに取り組んでいけば
その領域は広がり伝わっていくはずである
とわたしは心から信じています。

そしてそういう体験ができる場を持続させていくことが
わたしが大切に思っている仕事でもあります。

何よりも
今を生きている子どもたちに
安心で安全感のある社会を
私たち大人が提供しなければならない。
それには大人がそのような体験をすることが重要で
わたしが大人に向けてのセッションを行っているのは
そういう意味があります。

東京では特に
一人で全てを抱え
人との距離が近くなく
一人でなんとかしなければ、
という気持ちの人が圧倒的に多いけれど
(他の都市に行くと違いを明確に感じます)
もっと楽にやろうよ
もっと分かち合おうよ
やり取りしようよ
受け取ったり差し出したり
言葉以外でも
病気だったり困ったことがあってもなくても。

ここはそういう場です。

樹木が根っこでコミュニケーションをとるように
鳥や獣が声とか超音波でお互いのサインを感知するように
人間も言葉でなく
動きやエネルギーや声でもっと交感し合うといい。
大地とつながりながら。

空の見える場所で
音楽も一切使わず
激しい動きもせず
けれど深いところで何かが動いていく…
そんな時空でした。

やはり一日たっぷりと使えるのはいいねというご意見もいただきましたので、東京でも一日WSを定期的に行なっていこうと思います。(また、関東以外のどこかにもお声がけいただければ
喜んで参ります。ご相談ください)
言葉ではない領域をしっかりと体感した後は
皆よく食べ、よく話し、
普段のアフター会ではあまり出ないような話も。
親との関係(これは本当に一生モノ)や
子どもだった頃のこと、インナーチャイルドなど
日頃はなかなか語れないことも出てきて
違う層での深まりがありました。

こういうのがいいよねえ。

アジールだもの。







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身体に立ち返るということ

2017-09-28 | 身体/ダンスから学ぶこと


激しい風雨の中に立ち尽くしてしまっても、
悩みや苦しみに立ち止まってしまっても、
心臓は鼓動を続けるし
呼吸は止まらない。

身体そのものが停止する時まで
身体はあらゆる営みを続けていく。

小さな細胞が少しずつ身体の形をなし、
育ち、生まれ出てからも
細胞は生滅を繰り返しながら
私たちの身体を維持していく。
そういう身体の営みに支えられ生きている。

心の問題に気を取られ
苦しんでいる時も
様々な形で手助けをしてくれている。

苦しんでいる時も
今は何も問題ない、と思っている時も
精緻な仕組みで身体は働いている。

そこに時々立ち返ってほしい。
そこには「当たり前のこと」など
何もない、ということを。
静かに立ち、大地を感じる。
重力を感じながら微かな動きを作り出す。
そのかそけき行為の
精緻で荘厳な仕組みは
その状態に入ってみないとわからない。

身体を器という人もいる。
神殿と感じる人もいる。
疎ましさの対象になっている人もいる。

いずれにしろ、
今生、死ぬるまでの時空を共にするのだ。
そのことへの愛おしみと哀しさと喜びや
そして改めて生きてある身体への感謝を
味わいにいらしてください。


9/30は田園都市線溝の口にてWSを行います。
お申し込み受付中です。
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誘導なきジャーニー、そしてそれぞれの神話へ

2017-04-24 | 身体/ダンスから学ぶこと


先日のWSは近年稀に見る時空間だった。
自分が何かを誘導することもなく、ドラムや声やティンシャなども一切使わず、
参加の方のそれぞれの内側のプロセスが進んで行った。もちろん最後のグラウンディングはしっかりと。
たまにこういう時が訪れてくれる。
ネイティヴの長老っぽい人が来てくれていたらしい。


作為なきシャーマニズム、誘導なきジャーニー。
身体はあまり動かしていないが、それでも空腹になる。
メキシコ料理屋でマルガリータと辛いものを堪能した。

時空を超えたことが起きていても、当の本人はすぐにはもちろん気づかないのだが、
終わって言葉にして、「大きなサイクルの中の物語」がそれぞれの中で起きていたことを確認した。

人数が少ないWSの時は、時々予想をはるかに超えたことが起きる。
「お互いに配慮」する気持ちや「他者の目を意識」する気持ちが発動せずともすむから、というのが一つの理由と思う。

場がきちんと整えられ、
他者の目を意識しないでいられる時、身体は勝手に動きを発動する。
自分の頭はそうしたいわけでもないのに身体が勝手に動く、という体験になる。
同時に、自分でそう思おうともしないのに勝手に浮かび上がってくるイメージがあるからだ。
イメージと身体が同時に動いていく。
自我はただそこについていく。

人にはやはり物語が必要だ。
身体、心、魂。
バラバラのピースを一つのものにしていくことは一つの物語にしていく、ということである。
それは個々の「神話」を紡ぐ作業なのだろうと思う。
今生きている狭い世間ではなく、時空を超え、種を超えた大きな物語の一部となる。

地球や宇宙をも孕んだ大きな物語の中に自分がいると感じることができれば。
死も不安も恐怖も喜びも、大きなサイクルの中の一部であると感じられれば。
自分や世界への見方も変わるだろう。
そういうことがこのちっぽけなWSの中で起きたこと、そこに立ち会えたこと。
日常の片隅の3時間の間に。

終わってからさまざま雑談をしていて、ギミックなシャーマンの話になった。
まあどこの国にでもいるけれど、いかにも!という衣装を身につけ、
いかにも!な素振りな人に騙されかけた話とか、善良な人ほど騙されるとか。
いつの時代になっても、人は見かけに騙されるのね。それは変わらないのかな…


人が主体的に紡ぐ自分の物語と、地球や宇宙や、世界が紡いでいる物語。
それがどこかで重なり合う。アルケミーを起こす。
そういうことが起きる時空を信じているし、それを起こすような時空間を作る。
それが自分にとってのアニミズムとシャーマニズム。

(写真は帰りに立ち寄っていただいたフローズンマルガリータであります。
ストロベリーとキウイ。色がきれいで嬉しくなる。)
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「自分を忘れたとき、本当の自分を発見する。 本当の自分を表現するとき、自分はいなくなる」

2016-08-20 | 身体/ダンスから学ぶこと



「自分を忘れたとき、本当の自分を発見する。
本当の自分を表現するとき、自分はいなくなる」
ヴィクトール・フランクル


ときにはごはんをきちんと噛み締め、
口の中で味わってみる。

噛んだそれが喉を通って胃の腑に落ちていく感じを
味わってみる。

地味だが滋味溢れるもの。
白米でなくてもいい、玄米でもなんでも。


東京で20年行っている
ダンスセラピーのWSは、
気がつけばそんな感じのことを静かに行なう場になっている。


来る人は、それぞれの生活や仕事や
ときに出現する症状や、最近起きた出来事や
長年抱えてきたものを
身体のうちに携えてやってくる。


多くの場合、意識に上って来るのは
身体よりも
身のうちに携えているもののことである。


しかし、「身体」は毎日食べる米のようなものだ。
無意識に、無自覚に、当たり前のこととして
認識されている。


そこにフォーカスしてみることで
身体への感じ方が少し、変わる。


最初は自分では気づかないことが多い。
何度か繰り返すうちに、あれ?と思う。
そういう変化の仕方が
最も好ましいと思う。


ブレイクスルータイプのWSでは
そのときは気持ちが高揚して
突破できたような気持ちになるが
そういうときには必ず揺り戻しがくる。
変化したつもりが、一時の気分の上下にしか過ぎなく
反動がよりひどくなることもある。
下手をすると、発病を促すこともある。


立つ、歩く、重心を感じる、という
ベーシックなところからほんの少し重心を移動したり
重力に任せてみたり、
という極めて些細な行為から
身体は息を吹き返してくる。

ここに理屈はいらない。

そしてこういうわずかな動きから
踊りの芽は吹き出してくるし
世界の出来事に翻弄されている心身が
落ち着きを取り戻してくる。
しっかりと重さを持った身体になる。

これが今後、本当に大事なことになると断言します。


世界がどう動いていこうとも、
厳しい現実があっても
自らの重み(=という存在)を確かめ、感じ続けるという覚悟、
そして柔軟に対応していくということが
生きて生き延びて行く決意、なのであると思っています。

とにかくやり続けること。

自分の踊りを自らのうちに見いだすために。

踊りたい方はどうぞいらしてください。

そしてねばり強くやり続けてください。


*********************

今月は8/28(日)に行います。
来月は9/10(土)です。

初めての方も歓迎です。

8/28の
お申し込みは
ここをクリック!
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されるがままになりなさい

2016-06-27 | 身体/ダンスから学ぶこと




踊りを踊ってやろうとか

人にほめられる踊りをするとか

何かを表現してやろうとか

美しく踊ろうとかいう

ケチな根性は捨てて

踊りにされるがままになりなさい。
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踊るということ。

2014-10-20 | 身体/ダンスから学ぶこと
踊るということ。

生命力が賦活されること。
自分に還ること。
身体に素直になること。

嘘に気づくこと。

誰かと出会うこと。
何かと出会うこと。
自分と出会うこと。

身体が勝手に動くこと。
身体が勝手に笑うこと。
身体が勝手に泣くこと。

楽しいこと。
苦しいこと。
疲れること。
さっぱりすること。
汗をかくこと。

頭を吹っ飛ばすこと。
生きていると感じること。

踊りたいから踊るということ。

それで充分じゃないか。
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今生を生きる 身体を生きる 魂を生きる

2014-10-09 | 身体/ダンスから学ぶこと

人にはそれぞれ、
生まれ持った魂がある、と思う。

育ってくる過程で
私たちはさまざまな出来事に遭遇する。

それは喜びに満ちたこともあれば
悲しんだり、恨んだり
病になったり
別れを体験したり
傷になってしまうことも少なくない。

本当はどれも、人生の糧なのだ。
自分がそれをどのように受け取るのか、ということだけなのだ。

体験の受け取り方次第で
悲しみも苦しみも
楽しいだけでは得られない
豊かなギフトとなる。

身体からのメッセージはさまざまな体験をギフトに変えてくれる。

思考ではなく、感情でもない
深いところから魂の声を届けてくれる
とても素晴らしい智慧なのだ。

身体の語ることに耳を傾けよう。

しがらみもプライドも言い逃れも
必要がないと感じたならば
思いきって手放していこう。

私たちは本来の自分の魂を生きるのだ。

歌も踊りも言葉も、
嘘のない身体を通して発せられたものは
魂そのものなのだ。

身体に対して敬虔になろう。
今回の生をこの身体と共に
真摯に生きて行こう。

与えられた学びを楽しみながら。


それが、魂の目的なのだ。

☆。.:*:・'☆'・:*:.。.:*:・'゜:*:・'゜☆ ☆。.:*:・'☆'・:*:.。.:*:・'゜:*:・'゜☆

大正まろんプロヂュース10回目の大阪WS、開催します。
10/24,25です。

みなさまの参加をお待ちしています。

http://blog.goo.ne.jp/kyondance/e/c2d15e374619b7a48d6f8fc4658a7995
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揺らぎと身体とグラウンディング。

2014-07-02 | 身体/ダンスから学ぶこと
311の次の週にWSを企画していたのだが、
そのときやろうとおもっていたタイトルが
「揺らぎを生きる」だった。
そしてあの震災があり…

本当にそのシンクロに吃驚した。
自分の奥底は既にそれを知っていたのだと思った。

余震が続く中、
さまざまなWSはどんどんキャンセルされていた。
わたしは迷ったあげく、決行した。
何だか必要なことに思われたからだ。

その日行ったのは
緊張している身体を
まずはほっとさせること。
そして適度に緊張をほぐした後に
いつもよりも念入りにグラウンディングを行った。

始まる前と後では
皆の身体が全く違った。
もちろん、表情や気持も。

以前、フォーカシングを専門的に学んでいる人が来ていて
グラウンディングのワークが非常にいいと言われたことがある。

脚は大地と接するところ。
そして大地のエネルギーを直に感じて
吸収するところ。
今の地球に生きているわたしたちには
とりわけ大事なことと思っている。
特に、このように時代が大きく揺れているときには。

今取り戻すべきは
物事を判断するときの直感力。
どっしりとした自分の身体と、
時代や周囲の声に振り回されない平常心。
どんなことがあっても対応していかれる柔軟性と思う。

そういうときに、
身体のワークは本当にいい。

取り戻せることがたくさんある。
そして、どんな時代であっても
自発的に動く、ということで感じる喜びは確かなものの一つだから。

生きているということを、
身体レベルで取り戻すことが
この時代にとても必要なことと思うから。

踊りましょう。

自分の中にある、さまざまな感覚と共に。

泣きながら、
歌いながら、
笑いながら。


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ダンス雑考

2013-06-29 | 身体/ダンスから学ぶこと
研究所の講座などで話をすると
舞踏を知らない、というひとがほとんど。

学術的な定義付けはさておき、
舞踏の何が面白いのかということを
コトバだけで話しても
勿論すぐに伝わるものでもない。
ダンス、という言葉に置き換えると
たぶん「=振り付けのあるもの」とか「=洋舞」とかに
脳内変換されてしまう。
それゆえに「苦手」と反応してしまう人もまだ多い。

また、インプロであっても
身体感覚や内部の感覚を丁寧に意識するまでは行かず
動くことによってカタルシスを得るという枠組みで考えている人も多いように思う。

自分にとって踊りは突き詰めれば
その時々の自分自身と向き合うことに他ならない。

その素地は岩下徹さんと芦川羊子さんに出会ったあの頃に
明確になった。

どう伝えるかも含めて、それを今も淡々とやるだけ。

身体には「物語」はあるけれど
それは「嘘」とは全く違うことなのだ。
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