原キョウコ ダンスセラピーラボ

ダンスセラピーという手法を通して心身の解放をサポートし、心と身体と魂をつなぐことを目標に、研究を重ねている場です。

無為/無心/身体と重さと世界との関係

2019-10-29 | 身体/ダンスから学ぶこと
日常の中で思うに任せずぼんやりとしていると
自分には何もない、と思うことがある。

しかし踊っている時と自然の中にいるときは、
自分には何もないが全てがある
(言語化すると陳腐だが)と感じていることがある。

そこでは「自我の檻」の中にいないからだ。

境界線がほどけていき、
世界とともにそこにあり、
世界とともに呼吸しているような感じになる。
そこの一部になる感覚。
自分というものも消える。

踊ることは子どもの頃、
しゃがんでアリの行列ををじっと見ていたことや
タンポポを摘んだりしたのと
同じ行為だと思う。

無心であること。
特別な身体を「作り込んで」することではなく、
自分のなすがまま、あるがままをでいてみること。
それをただ感じてみる、ということだ。

だから誰もが踊ればいいのに、とつくづく思う。

だいぶ昔のことだがWSに初めて来た方が
身体ほぐしなど一通り終えてムーブメントの時間に入ったら、
最後まで1時間ほど座ったまま動かずにいた。
終わってから「世界一周をしていた」、と話された。
こういうことが今でも起こる。とても面白いことだ。

身体とイメージが結びつく時空。
「ここ」ではないところで。
同時に「今ここ」で。

ただし、こういうことが起こるにはウォームアップが必要で、
それがいつも私が行う身体ほぐしなのだ。
これはシンプルながら非常に奥深くを掘り起こす。

ある時も、ムーブメントの30分ほどを
微動だにせず立っていた方がいて
おそらく樹になっているのだろうと思ったが、
そうだったとのこと。
なんの身体訓練もしていない人が、
微動だにせずただ立つ、立ち続けるというのは
本当に難しい。
空になるか、何かになっているか、
ひたすら重さやバランスを体感しているか。
そのどれかの状態になっている時にそれは持続する。

これでいいのか?どうしたらいいのか?正しいやり方か?
これで合っているのか?と思考のジャッジが入った途端
保たれていた平衡は崩れる。

踊る、ということは
「そのままに在れるか」ということでもあるし、
「自分ではない何かになること」でもある。

それはもう物質対非物質、
みたいなこともすっ飛ばす。
どちらでもあり、どちらでもないのだ。

それをもっと多くの人に体験していただければと思う。
「ノンデュアリティ」に近いのかもしれない。

人の前で動くことを恐れる人もいるわけで
それは見られること=ジャッジされることになっているだけで
その人の中の問題であるだけだし
何かを掴める瞬間というのはとても無意識的なものであって
動きに集中している時
動きそのものになっている時
あれ?今のはなんだ?みたいな体験をする。
それを言語化したり、誰かに指摘されたりして
自分の意識と結びついた時に腑に落ちる、ということが起きる。

そこには世界と自分(自我ではない。身体もエネルギーもひっくるめた、存在としての)
の関係しかない。

肉体というこの不自由なもの、
そしてその重さと不自由さを知ること
不自由を通してしかでき得ない
その崇高さや不思議さにこうべを垂れない限りは
(あるいはsurrender)
重さに”制限”されない世界、
新たな世界に
触れることは始まらない。

パラドックスのようだけれど、そうとしか言えない。

しかし、
世界と自分との新たな地平が広がってくると
世界との関わり方が変わってくるのだ。

それこそが私たち自身がなんども変容を繰り返し
手に入れるべきものだ。

(写真は先日行った山の中の聖地であります。
恐れを感じるほどに静謐な空気だった。)

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原キョウコのダンスセラピーについての考え方

2019-10-25 | ダンスセラピーについての考え方
いつも思うのだが
ダンスというといっぱい動いて発散して解放して、
というイメージを持たれる方がとても多いのだけれど
自分がここ何年も行っていることは
闇雲に動くことではなく
微細な感覚(身体の内も外も)をどのように丁寧に
拾い上げていくか、ということがメインであるし
身体の通りをよくすることであるし
所作に意識を向けることにより
身体感覚もエネルギーも全く変わる、ということであって
いつもその辺りがどの程度言語化でき
どの程度伝わっているか、
ということに試行錯誤している。

感覚というのは非常に微妙なもので
思い込みに過ぎないことも多々ある。
人は自分の見たいものしか見ないし
手前勝手なストーリーを作り出すものである。
しかし緩やかにほぐしていくことにより
身体感覚も感情も「ニュートラル」な状態、
になることがあり
これがいちばんのベースとなる。

いつも日常でつけている防御のための鎧を外した状態。
ココロが上がりも下がりもしてない状態。
ただそこに在り、ゆったりと呼吸をしている状態。
そのままの身体で、ずっと同じ姿勢でいても平気だ
と感じる楽な無理のない状態。
心身の一致した状態。
自分の重さがちゃんと感じられる状態。
何も考えていない状態。
これがすべてのベースになる。
ここからが始まりの場所になる。

そこから動きとイメージの手がかりを元に
一人一人がその感覚とイメージの一致した中に
踏み込んでいくのだが
何に出会うかは人それぞれである。
動いていて心理的な抵抗が出てきた時は
それに抗わず、ただそれを観る。
一切のジャッジはしない。

その裏には怖れや悲しみがひっそりと隠れていることもある。
疲れを感じた時はその後ろに隠れているものを
そっと拾い上げる。
そういう営為を繰り返していくと
自ずから浮かんでくるイメージを捉えやすくなり
その中で自在に旅をすることができる。

イメージというのは思い浮かべるとか
空想の世界に逃げることでもなく
想像の中ですらありありと知覚でき
生理的変化をもたらすものだ。
(レモンや梅干しを口に含むと想像した時のように)
身体はいつも命令されてばかりだが
本当はこうしたほうがいいということを
思考よりも先に知っているし賢い。

そして嫌なことや無理なことに対しても正直だ。
そういう身体の声を受け取れるようになるには
それなりの訓練が必要だが
そのコツがわかってくると
自分の状態をつかむことが容易になる。

身体感覚と感情の関係がつかめてくると
感情的になって何かに当たるようなことも減る。
自分を責め続け沼に沈むような時間も減る。
その原因が遠い昔にあることも多い。
それがわかれば、解消していくことも多いのだ。
自分という存在は「自我」ではなく
身体も含めたまるごとの存在であることを
生きるようになること。
それが日々の生きづらさを解消する糸口になる。

生きることのあらゆる営みをもっと丁寧に味わおう
自分に嘘をつくのをやめよう
周囲の批判を恐れ顔色を伺い
出る杭にならないよう息をひそめるのはやめよう
自然の一部であるはずの「身体」を取り戻し
そして自分本来の魂を取り戻し
生き生きと生きよう
というのが
自分の行なっているWSの大きな目的であります。

日常の忙しさに振り回されている
他者の感情に巻き込まれやすい
考えすぎて自分のやりたいことがわからなくなる
他者とのバウンダリーが弱くなっている
などの時にはとても有効です。

そしてニュートラルな心身で自然とつながること。
自然や、大いなるものとつながること。
しっかりとグラウンディングした状態で。
それこそがもう一度
この大地の上に生まれ直し
歩けることを喜び
自分の道を見つけ歩いていくことにつながるのではなかろうか。


※写真は今回の長野の旅で出会った素晴らしい水の風景。
水は恐ろしい力を持つがとても美しく神秘的なものでもある。
今回は風の神に祈りに行ったつもりが
思いがけない水場との出会いから水への祈りにもなった。
ともあれ、自分にとってはすべての自然は神である。










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【アジールとしてのダンスセラピー レポート】2019/10/20

2019-10-22 | 身体/ダンスから学ぶこと
東京での一日WS
「アジールとしてのダンスセラピー」
終了致しました。

参加のみなさま、サポートの真由美さん
ありがとうございました。

ふんわりじんわりとしながらも
深いところでのセルフケアとなった方もいらしたと思います。

・身体の痛みがみるみるうちに取れた
・身体の内側にエネルギーが満ちていく感覚が体感できた
・場のエネルギーが感じられた
 人だけではなく大地や太陽のエネルギーも引き寄せられてきた感じ
・いつもは感じにくい身体の感覚が蘇った
・身体と心がつながった
・シンプルでニュートラルになった
・自分への理解が深まった
・大いなるものからのメッセージが心にしみた
・グループワークの良さを十分に味わえた
などの感想をいただきました。

今回のWSの内容を考えている時に
いくつかのキーワードが浮かんできましたが
その一つが「分断」でした。

どんどん分断の酷くなっているこの社会。
まずは自分の内側で分断が起きていないか。
あるいは上半身と下半身で分断が起きていないか。
自分と何かの間で分断が起きていないか。
個人的な問題も世界の問題とつながっています。

自分自身を大切な「アジール」とし
その聖域を少しずつ広げていくこと。
周囲の人を巻き込み、
お互いに思いやりの持てる社会にすること。
地道ですが一人一人が本気でそれに取り組んでいけば
その領域は広がり伝わっていくはずである
とわたしは心から信じています。

そしてそういう体験ができる場を持続させていくことが
わたしが大切に思っている仕事でもあります。

何よりも
今を生きている子どもたちに
安心で安全感のある社会を
私たち大人が提供しなければならない。
それには大人がそのような体験をすることが重要で
わたしが大人に向けてのセッションを行っているのは
そういう意味があります。

東京では特に
一人で全てを抱え
人との距離が近くなく
一人でなんとかしなければ、
という気持ちの人が圧倒的に多いけれど
(他の都市に行くと違いを明確に感じます)
もっと楽にやろうよ
もっと分かち合おうよ
やり取りしようよ
受け取ったり差し出したり
言葉以外でも
病気だったり困ったことがあってもなくても。

ここはそういう場です。

樹木が根っこでコミュニケーションをとるように
鳥や獣が声とか超音波でお互いのサインを感知するように
人間も言葉でなく
動きやエネルギーや声でもっと交感し合うといい。
大地とつながりながら。

空の見える場所で
音楽も一切使わず
激しい動きもせず
けれど深いところで何かが動いていく…
そんな時空でした。

やはり一日たっぷりと使えるのはいいねというご意見もいただきましたので、東京でも一日WSを定期的に行なっていこうと思います。(また、関東以外のどこかにもお声がけいただければ
喜んで参ります。ご相談ください)
言葉ではない領域をしっかりと体感した後は
皆よく食べ、よく話し、
普段のアフター会ではあまり出ないような話も。
親との関係(これは本当に一生モノ)や
子どもだった頃のこと、インナーチャイルドなど
日頃はなかなか語れないことも出てきて
違う層での深まりがありました。

こういうのがいいよねえ。

アジールだもの。







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