隣の州政府広報。
隣のキンタナ・ロー州は以前から中央政府寄りで、そのため中央政府の正書法に基づいてハナル・ピシャン(マヤ文化での死者の日の食事、死者の日そのものも指す)を Hanal でなく Janal と書くのが正しいと言っている。スペイン語ではHを発音しないので、メキシコ人にとって正しく発音しやすくしようと思えば、Jになる。でもユカタンでは長年Hを使ってきた(キューバのタイノ語との関係もあるとかないとか)が、今年は政党が変わって中央の与党の知事になったので、J表記が増えた印象を受ける。
死者の日でござる。去年は引っ越すほんの少し前だったので、今年はディープ・マヤの死者の日を堪能するぞ!と期待ガンガンであったが、思ってたのといろいろ違ってそれはそれで面白かった。
マヤ文化圏の本当の死者の日には、ガイコツは登場しない。あれはメヒコのものである。ユカタン文化グループでは、毎年ガイコツを取り入れることはいいだのダメだのと議論している。ユカタンの伝統的な死者の日では、祭壇は家の中に作って厳かに死者の魂を迎える。
だから村の様子も普段とあまり変わらない。ただ、近所の人たちに聞くと、近くの村に住む親戚んちに行ったり、いろいろ準備で忙しいという。マヤ文化グループで「祭壇は見世物じゃない」という議論があったが、まさにそういう感じがする。ただ、夜には親戚で集まってワイワイやっているのか、どこからともなく爆竹の音が聞こえる。
爆竹もうるさいが、それより衝撃的だったのが、祭壇コンテスト。海辺の村では、移り住んだ当初はマヤ式のが数個といった感じだったが、年々メヒコ色が強くなってガイコツだのオレンジ色の花などを使うことが増えて、かつ見世物度も上がっていった。が、うちの村の役場でコンテストがあるというので、よーし、今年は久しぶりに厳かなマヤの祭壇を見るぞ!と勇んで出かけていった。
マヤ式の祭壇がいくつか並んでいて、そのどれもが正当マヤ式…ってな静かな展示を想像していったんだが、見事に裏切ってくれたw。大勢の村人、子供の数が半端ない。どう審査するのか知らないが、マイクを持った役場の人?が順番に回って、各製作者グループの代表が祭壇つくりのコンセプトなんかをスピーチする。その間も、どんどん見物客が増え、子供達が走り回る。
配るというか、見物客が祭壇の上からどんどん好きなものを取っていく。なくなると製作者が奥から出してきてまたどんどん並べる。
食べ物を漁りにいくようでちょっと嫌だったが、肝心の祭壇を見たかったのでちょっと回ってみた。
後で聞いたんだが地元の小学校などが出場していて、祭壇そのものの様式はそれほど重要でなく、作るという伝統を守るための学校行事に役場が一役買っているという感じらしい。田舎の村にはこれといった娯楽がないが、自分たちでいちいちイベントにしてしょっちゅう楽しんでいる。ディープ・マヤ感ゼロだが、これはこれでここらしいなと思った。ってか、これは30日のイベントで、31日には学校でまたちゃんとした死者の日のイベントをし、1日は各家庭で故人を偲ぶらしい。
奥まで入って見てけ!食べてけ!と囲まれて、死者の日の甘いお菓子なんかを次々と勧められて、最後には
グレープフルーツとみかんとオレンジをこんなにどっさり。
死者の日の甘いお菓子というのは、有名なメヒコの死者の日だとこんな感じ。だいたいがマジパンでドクロや食べ物に成形したもの。ユカタンだとこんな感じ。果実を甘く煮たものなどもある。シリコテ(ギターの材料になるジリコテの実)のが美味しかった。ここのマジパン菓子の特徴としては、かぼちゃの種を挽いた粉を使っていること。
ところでちょっと日にちが前後するが、死者の日の週が来ても、FBで関連グッズ(ひょうたんの殻で作ったお椀やろうそくなど)の販売が盛んになっる以外、あまり村の様子は変わらなかった。メキシコの死者の日をググると出てくるようなこれ見よがしな飾りとは無縁。
隣のマリアは関連グッズをどこかで仕入れてテカシュ村まで売りに行くと言っていた。日を追うごとに、お菓子を売る人も増えてきた。そういう関連ものでゲットしたのがこちら。
えー、チョコレートの発祥はここ中南米で、甘い板チョコじゃなくて苦い飲み物だったというのは、今どのくらい知られているんでしょうか。我々はメキシコに来てすぐウシュマル遺跡に行ったとき、近くのチョコ博物館で知って、ついでに試飲もできた。苦かった。
さすがディープ・マヤだけあって、村の人たちはタブリヤという板状のもの(チョコレート飲料の素)を手作りして売っている。作るところも見たいがまだ家のあれこれ(留守中まったくされてなかった掃除とか、ようやく食器棚が来るとか)で忙しいので、とりあえずブツだけ。年中ときどき売りに出ているが、死者の日にお供えする/振舞われる食事の一部なんだろうか、この時期はめちゃくちゃ多い。カカオとその他材料の複雑な香り。これを湯で溶いて飲むと言われたので、まずはその通りに。
そして苦い。役場が売っていた死者の日のお菓子と、ものすごく合う! 友達には甘いパンを食べながら飲むと美味しいよと言われたが、パン程度の甘さではイマイチというか、これは日本のお薄とまったく同じように、ちょっとの量の甘いものの後にめちゃ苦いものをゴクッと一口いくのがいい。まだ残ってるので、次回は茶会みたいにセッティングしてちゃんと飲もうと思う。
青い皿のはサポティートという。祭壇コンテストで人に揉まれて潰れてしまったが、本当は博多のひよこみたいな形をしている。
他のマジパンもかぼちゃの種が入っていればそう呼ぶらしいが、うちの村では正確にはこの形のものを呼ぶらしい。なぜこの形なのかはこれから聞く。
チョコレート飲料の上に写っているせんべいみたいなものは、かぼちゃの種そのものを砂糖などで固めたもの。アーモンドみたいに後を引く味。これまた苦いチョコ飲料に合う。
こちらは「うっ、苦い!よく知ってるチョコ飲料じゃない!」と感じる前に脳がミロだと認識して、非常によろしくなかった。二度とやらない。
ユカタンの片田舎には、死者の日のパンは登場しない。その代わり、なぜか大きいサイズのパンが出回る。お供えした後みんなで食べるんだろうか。
希望者が一緒に写真を撮れるように歩き回っていた。役場が雇ったのであろう。それにしても、本場メヒコのガイコツにも、こんな丑の刻参りみたいなのがいるんだろうか。
最後に、祭壇という言葉は墓そのものを指すようで今ひとつピンとこなくてずっと盆棚と呼んでたんだが、キリスト教では何かするときの台のことを祭壇と言うんですね。でも、マヤの祭壇は日本の盆棚とコンセプトがまったく同じなので、個人的にはあれは盆棚だ。
えー、身内は当然知ってましたが、日本へ一時帰国しておりました。実に9年ぶりの日本だったが、今はインターネットのおかげで浦島太郎感はほとんどなし。ネットで見聞きしてたことを「ああ、こういうことか」とダイレクトに感じた程度だった。
さて、留守中に相棒に完了しておいてもらいたかったことがいくつかあって、相変わらず自分がやりたいことを優先していたため終わってなかったことのうちの1つ。デカすぎる木を切り倒す、あるいは天辺を切ってこれ以上伸びないようにする。隣のマリアに何人か業者を紹介してもらったんだが、誰も来なかったため。下見に来たときにはいついつ来ると言ってたので何が気に入らないのか分からないが、バックレられていた。今回はマリアが持っている果樹園で働いてもらってる人の仕事が終わるというので、続けてうちに来てもらえることになった。3人組。
1人がビーサンのままスイスイ登って、まずはマチェーテで枝を払う。
1本は3mくらいの丸太(電信柱状態)にしてもらい、もう1本はいろいろ密集しているので根元から切り倒してもらった。
こちらもデカイ。この木は切り倒して栽培用品種を植えろという意見もあったが、たくさん実をつけるまで年数かかるし、自分たちが食べる分には何でもいいんで、せっかくの大木を残すことにした。ただし、高すぎるので4mくらいの高さで切ってもらう。
葉っぱのついた枝がどっさり。これで低いところでたくさん身をつけるようになり、わたしのもぎ棒で簡単に取れるようになる。
これもヒョロ〜っと高いし落ち葉がいっぱい落ちるし、何よりこんな広い敷地なのに車で外出するときバックで道まで出なければならず、非常に邪魔な木であった。この高さまでビーサンで登って、重い電ノコを使うのすごい。
そのあとは、親方たちがやったように根元で切り倒すんだが、枝を先に払うのといい、3人だけで思った方向へピッタリ倒すのといい、とてもプロフェッショナルな仕事であった。当たり前。
ウアノとスギと何だか分からない木が3本、根元からひっついてそれぞれ大木に育ち、かついつだか知らないが近くで物を燃やした影響でスギの低いところがうろになっているという厄介者である。これは見た全員が、ハリケーンの襲来を心配したという代物。
こちらも、雨季にも関わらず何とか生き延びた(ジャングルに戻らなかった)遊歩道の伸びる方向へピタリと切り倒した。
あとは、葉っぱがついた小さめの枝・ふだん使い用の細い薪・ピビル用の太い薪・板に加工するための大きな木材の状態に分け、別々に搬出した。葉っぱは牛の餌になるなど、それぞれに売り先がある。ピビル用の薪は、死者の日が近づいてこれからピブを焼く人が増えるので、値段も上がりつつある。いい仕事をしてもらえるなら、より彼らの現金収入が多くなるように、この時期に仕事を頼むのがいいかもしれない。
板になる部分の丸太が太すぎるのでスライスしたときに出たおがくずと、切り倒す時に取れた葉っぱは、これから我々が掃除する。もうハリケーンシーズンは終わりに近いが、とにかく懸案事項がひとつ片付いてホッとした。
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実は、買い物もいろいろ片付けることもスイスイと捗る東京の真ん中の非常に便利なところに2ヶ月強滞在し、メキシコの田舎の州のそのまた田舎のちっぽけな村に帰ってくるんで多少の不安はあった。のどかなのは好きだが、要領を得なかったり諸事遅れてたり汚かったり…。嫌に感じたらどうしようと考えなくもなかった。が、帰ってきてみたら東京とはあまりにも別世界で、ぜーんぜん気にならないのであった。よかった。
トルティーヤをロール状に丸めて揚げたものにトマトサルサやチーズなどをかけるスナック。ユカタンにしかないらしい。我が家では、このサルサをかける前のロールを、三角のトスターダの代わりに使う。
まだ若いからだと思うが、いつも雌鶏に逃げられている。この鮮やかな外見にも関わらず、さっぱりモテない。外見だけじゃなく鳴き声も、我々には馴染みのあるコケコッコー。よく聞いてると、コッケコケーとかコグェーとかコケーッグォーとか色々で、文字通りコケコッコーなのは非常に微笑ましい。が、モテない。
まだ完璧とは言えないが家の建設そのものに関係する諸々はほぼ片付いたので、総まとめをしておく。
ちなみに設備外構建具以外、基本的に発注すれば全部建てててくれる、日本でいう大工さんみたいな人をアルバニィエルという。工法が違うので、用語的には組積工になる。
まず前提として、海辺の村の家はLさんに全面的に面倒を見てもらった。Lさんは、メキシコへ来て初めてできた友達で、ちょうど土建屋で、かつ当時は連邦の与党の知事が公共工事を地元ユカタンの業者でなく中央の会社にばかり発注していたのでユカタンは不況で暇していた。子供の頃からアルバニィエルのお父さんを手伝っていて、そのまま独立(当時は資格なし)したが、立場としてはアルバニィエルのチームを監督するエンジニアである。そのとき毎日のように現場に行って見学し、家が建った後も他の現場を見せてもらった。
その後、うちの周りで新築工事が始まるたびに、行って監督やアルバニィエルたちと仲良くなっていろいろ見せてもらったりした。最後は隣地の米人おばさんの現場に張り付いて観察した。すべて、現場監督の下にアルバニィエルのチームというスタイルである。
この村には大学で建築を専攻した(資格ありとほぼ同意語)人はいない。地元には工業高校があるが、建築士や監督でなくアルバニィエルとして働くための知識を学ぶ。学校で教育を全く受けずに現場で経験を積んだり、基本的に農業に従事してるがしょっちゅう現場を手伝ったりして、今ではベテランという人もいる。
というか、そもそもこのあたりでは建築士の出番があるような家はない。ヒルベルトに「建てる人を誰か」と相談したときも、何の疑問もなくアルバニィエルの親方を紹介してくれたし。
最近になって、ようやくメリダかどこかの設計事務所が作ったオサレな建売程度の設計の家がポツポツ増えてきたが、遠いので設計事務所はうちの親方みたいな「元請けになることに慣れている」アルバニィエルに丸投げする。
そういうわけで今回の新築にあたり、現場監督という立場で動く人間もほしかったが、この辺にはいないし、Lさんは井戸掘り屋として忙しく飛び回っているし、メリダで雇ったら高い移動費を請求されそうなので、監督はなしにした。…長かったけどここまで前提。
まず困惑したのは、この辺の村の発注スタイルである。ある程度の金ができたら、それで出来る分だけ仕事してもらう。基礎までだったり、壁までだったり、屋根までだったり、内外壁下地までだったり。頼んだ分の工事が終わると、人によって「金ができたらまた連絡する」とか「米国に行ってる息子からいついつ金が入るんで、それまで工事は一時中止」となる。メキシコではオブラ・ネグラ(未完成家屋)として珍しい話ではないが、この辺ではこれがデフォ。アルバニィエルはそういう現場をいくつか同時に抱えて、あっち行ってこっち行ってまたあっちに戻って…なんてことを繰り返す。一軒竣工したら次の現場…じゃないのである。
これを知らなかったので、うちの基礎掘りが始まって10数名が来たとき、こんなに大勢なら海辺の家より早く終わるかも…などと期待し、途中で一部が別の現場に行っていると知ったときはストレスを溜めた。
そして今思えば「金ができたら」スタイルでは、内外壁の下地(我々のいうペチペチ)が終わって最低限住める家ができると、ここまででいいやと考える人間が多い。金を惜しんだり、自分たちでやる(ペンキぐらい塗る)気になったり、面倒だからそのまま住んでしまったり。もっと言えば、最低限住める家なんで、そもそもそれで完成でいいと考える人間も多い。ヒルベルトんちも下地まで。
壁と屋根があって炊事用の蛇口がどこかにあってトイレがあれば、住める家。(でなければマヤの家…というのが、この辺の住宅事情)。
そうなると、アルバニィエル達にとって「躯体ができた後の細かいことはおまけ」になる。実際その頃になると設備屋や建具屋が入り、一度やったところに開いた穴を埋めるとか細かいことを直すといった作業が増えてくる。当然、士気は上がらない。がさつな田舎の土建屋にとって、もろ力仕事である基礎や棟上げなどと比べると、つまらない仕事なのである。
田舎の…ついでに、もうひとつ気づいたことがある。うちの親方に限らず、この辺のアルバニィエルは自分達の仕事をしょっちゅう自画自賛する。だいたいFBに、「素晴らしい出来」だの「人生で大事なのはしっかり働くこと」だの「汗水流して働くことの尊さ」だの「建築士には分からない、人としての価値」だの、己の誇りを再認識し合うためのフレーズを現場の写真とともに載せる。どんな職業でも自分の仕事に誇りを持つのはいいことだが、他の地域では「我々はいい仕事をしまっせ」ともっと営業目的の表現になる。ここではもっと人生がらみ、格言みたいな感じ。各々が自画自賛し、仲間とその家族が全員でいいね!するので、仕事がらみの投稿(現場写真)にはどえらい数のいいね!がつく。
マヤ人も「ユカタンの田舎者」もアルバニィエルという職業も、下に見られることが多い。本当は、昨今のポリコレ風潮で面と向かってバカにされることは減ってきているだろうし、そもそもこんな僻地にいれば直接バカにされる機会もない。が、下に見られる人間であるという認識を彼ら自身が持っていて、たとえ仲間内だけであろうとそれに反発する発言を繰り返して己を鼓舞するのである。
我々の現場の場合、設備がらみや仕上げの細かさ(曲がってたらダメ、揃ってなかったらダメ、色が違ったらダメ、etc)など、「つまらない仕事」の段階で「施主からの要望」がどんと増えたことになる。
施主からの要望とはいえ、我々からしてみれば海辺の村での暮らしを踏まえて元から考えていたことだから発注時に親方には話してある。やった経験が設備屋にないと後から知った仕様も、親方には最初から伝えてある。彼らにとって「この辺の家ではしない作業」だと分かり始めていちいち確認するようになったんで、なおさらうるさく感じたかもしれない。
「えー!?、親方に言ってあったのに…」という我々の反応が増え、常日頃自画自賛し合ってる自信満々チームの面々にとっては、ムカッとくることがしばしばあったんではなかろうか。中には分かりやすい人もいるんでw、もちろん尋ね方言い方には気を使ったんだが、こっちもメキシコでの2軒目の家となれば「よしとする」わけにはいかないことも多い。
その上、地面に棒っ杭埋めて葉っぱで屋根を葺いた家に今でも住んでいる人たちである。衛生観念が違うのも大きい。工事品質以前に、水が染み込むこと自体に何の問題も感じないとか。
あとはまぁ、マヤ人って半島内で自給自足してきた人達なんで、ありすぎて売ったら儲かったとかなくて困ったという経験がない。余った食べ物はそこらへ捨てておけば肥やしになる。建設現場に限らず、あまり物を大切に扱わないのはそこから来ると思う。もったいない精神の日本人には、見てるだけでストレスになった。
結論を言うと、万事日本のような高品質を望めないのは当然だが、メキシコはOECDの一員だし、まぁまぁの都会もあるし、最近はガイジンも増えてきたし…と、「大丈夫だろう」と思ったのがいけなかった。ユカタンの田舎の土建屋のレベルを過信していた。彼らが悪いとかそういうことじゃない。まぁ、2日で終わらせると「約束」したのを破ったのは、メキシコ人が聞いてもよろしくないことだろうが、作業員全員、日本語で言う「悪い人間ではないんだけどね〜」なのは確か。
単純に、無理だったんだと思う。どこか発展途上国のまだ近代化されていない村で、高機能住宅や高級ホテルや最新工場などを村人だけで造れといってもできないのと同じ。いや、我々の家はそんな大層なものじゃない。が、最先端じゃなくて彼らが出来るよりほんの少し上なだけのレベルだろうと、できないものはできないのである。
ほんの少し上ならこの機会に勉強してやってみるってことはしない。勉強しないどころか、分からないんで無視を決め込み、いつまでたっても完成しなかったり酷いときは違うことをしていた。抑圧され続けてきた時代とそれへの反発という、歴史的背景と関係するかもしれない。頑張ったって難題が多すぎるという、地理的ハンディから来るのかもしれない。建築に限った話じゃないので、おいおい観察していくつもり。
恐るべし、ディープ・マヤ。日本人、平和ボケならぬ高品質ボケ。
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お風呂にドアつけました。重かったですw。