La Ermita の記録

メキシコ隠遁生活の私的記録と報告
 @ユカタン半島。

近所の犬ら

2025年01月26日 | ユカタン諸々
毎日2回、犬の散歩に行っている。去年1匹死んじゃったので、今は我が家に最初に来た1匹だけ。当初は敷地内で放し飼いする予定だったが、隣家の鶏が入ってくる(そしてときどきうちで卵を産むので邪険にできない)し、村人たちに対して閉鎖的な印象を与えたくないので高いブロック塀で囲わずマヤの石塀で門扉もない。うちの犬は放し飼いに慣れてないので、出てったら絶対に迷子、そしてどこかで事故に遭って死ぬのが目に見えてる。というわけで逃走されたら怖いので、普段は繋いであって、朝夕に散歩。おそらく近所の人たちには「ヘンな日本人、犬の飼い方もヘン」と思われている。

メキシコでも都市部だと放し飼いは少ないが、この辺ではだいたいそう。性格が悪かったり闘争的だったり飼い主の言うことを聞かなかったりで放されているのは塀の中だけという犬がいるが、あまり多くない。他は、ほぼ放し飼い、犬も好き勝手にしている。飼い主もいろいろだし犬もいろいろなんで面白い。人によっては興味のない話だろうが、ちょっとまとめておく。(犬嫌いの家族、遊びに来なくなるかなぁ)

新居へ引っ越してきてすぐは方針が決まらず、リードに繋いで敷地内をぐるぐる回っていたが、わたしが日本へ行っている間に相棒が外に散歩に行き始めた。近所では、ヒルベルトんちと空き家以外は大体どこでも犬がいる。我々だけで普段前を通っていても、もう慣れたらしく何もしない。が、犬同士となると態度が変わるので、引き離すのに苦労したり、どうにも危険そうだとルートを変えたりと、最初の頃は大変だったらしい。ほぼすべての犬が、自分家の前を通る別の犬(うちの)を見ると、あるいは見る前からワンワン吠え出す。ちゃんと番犬として機能している。犬もお互い慣れてはくるんだが、どうにもならない相性ってものもあるらしい。

 特に犬が多い道。

ものの見事に全戸で飼っている通り。一軒、放し飼いをしている家があって、その家の3匹は両隣の家の前くらいまでがテリトリーになっている。飼い主の言うことは聞くが、飼い主がいると気が大きくなってギャンギャン吠える。この道を通るのはやめたが、遠目にうちのを見つけるとみんな反応している。その他の家は、敷地内で放し飼い。一軒の犬はうちのを無視、もう一軒はうるさく吠える、あとの一軒の3匹はうちのが好きなようでキャンキャン吠えながら塀越しについてくるが、うちのが相手をしない。

 閉じ込められ組。

 ハスキーともう一匹。

敷地内で放し飼い。逃走癖があるのか、門を開けるときは犬エリアに隔離している。うちのと特に仲が悪いのがこのハスキー(ミックスだけど)で、茶色いの1匹だけだと吠えてこない。

 その様子を見守る「隠居さん」。

ハスキーの家の隣の家で、いつも放し飼い。玄関部が広いテラスになっているので、犬小屋もない。

 じっと観察。

老犬らしく、ゆーっくり歩く。ハスキーたちが騒ぎ始めると道まで出てくるが、何もしない。距離をとって観察し、うちのがハスキーたちの前を通り過ぎるのを確認して自分ちに戻っていく。以下、隠居さんと同じ自由組。

 道へは出てこない。

 同じく敷地内だけ。

 こいつは前の道まで。

 変な顔。

 我々を待っている。

赤い塀の向かいくらいにある家の犬。

 一本の足だけ白。

ソック(靴下の片方)と呼んでたら我々に慣れて、いつも1ブロックだけ散歩に付き合う。

 2匹と2人で散歩。

自分の家の前を通るヒトや犬に対してじっと観察してたり吠えたりいろいろだが、うちの犬と違ってみんなテリトリーは分かっている。どう躾けたらそうなるのか? 続いて繋がれ組。

 オレンジの木の下。

 同じく。

 ミカンの木の下。

 ただの木の下。

猫も意外と多い。というか、犬でも猫でも避妊的なことを一切しないので、おそらくどんどん生まれてどんどん死んでいってる。

 元祖「ママが髪切った」

後ろにいる兄妹「自分で髪切った」はあまりうろつかないのか滅多に見ない。「ママが髪切った」はうちの敷地内を散歩したり、他の家の石塀の上を歩いたり、勝手気まま。

 「ちょっと待って」。

こいつはチャボのように足が短い種類で、見えているのは指(もみじ)の部分。普通の鶏のようにコケコッコーでなく「ちょっと待ってー」と鳴く。ところでスペイン語で鶏の鳴き声はキッキリキーだそうだが、これはまったく納得いかない。カキクケコでもラリルレロでもいいんだが、母音が違いすぎる。第一声の母音はイじゃなくて絶対にオ、そのあとはエ。ドグェ〜になったりその後も個体によって子音はテキトーになるが、みんな、母音を並べると「O・E・O・OO」である。キッキリキーなんて、小さい「ッ」の位置まで違う。絶対に認めない。反論も認めないw。

 我が家が縄張りの隣家の鶏。

マヤ文明は「崩壊」…(ナショジオ)

2025年01月19日 | ユカタン諸々
先日、ナショナルジオグラフィック日本版に「マヤ文明は『崩壊』などしていなかった、大幅な回復が判明、研究」という記事が出た。「文明崩壊、王朝消滅!」などのありがちなミステリアスさはずいぶん前に卒業した者としては、逆に何がそんなに新しい判明ごとなんだ?って感じで、記事を読んでみた。

 雰囲気だけ。

こういうのって著作権に引っ掛かるんですかね? それはともかく、ナショジオでさえ、話を「ミステリアス」系に持っていきたい思惑があるのを感じるw。

わたしが考古学でいう文明の定義を知らないからか、何百年も変わってなさそうなマヤ人の暮らしを毎日目にしているからか、記事を読むだけではまだイマイチ何が判明したのかよく分からなかったので、今回発表されたという論文を読んでみた。いろいろ感想が浮かんだので、忘れないうちに書いておく。

論文の内容を簡単に書くと、ある都市国家が消滅しても、人々は周囲に散らばって住んでいて、散らばった「統治者なき、一般人が住んでるだけのエリア」の人口は以前考えられていたよりずっと大きく、彼らが新国家の構築を助けた…だから文明(ある国家/王朝)の崩壊という言葉は正確ではない、という話。

ポイントは、神事祭事、つまり政(まつりごと)に関係なくただ人が住んでいるだけのエリアが遺跡(ピラミッドとか)からずいぶん離れたところにたくさんあり、その人口も以前考えられていたよりずっと多かったという部分です。ある王朝の崩壊後、役人(王族でなく)がそういうエリアに住むようになり、後に別王朝が興るのをその子孫が助けた、つまり「文化の継承」が見られる、と。

先行研究への参照が他の論文と比べて非常に多く、「これはライダーで新事実が分かったからから間違い」、「これは範囲を広げて調査したらこうだったから解釈違い」ってな感じで、マヤ文明研究の歴史を読んでるみたいだった。

 遺跡と居住だけエリアの散らばり。

真ん中辺の赤い線で囲まれた部分が、マヤパン遺跡(古代都市、世界遺産)。黒い線が我々がメリダに行くのに乗る自動車道で、それに沿って調査したら、現存する村のほぼすべてに古典期終末期から後古典期にセメントを使って造られた何らかの遺跡(ピラミッドとかじゃなくて)が見つかった。

今マヤパンと呼ばれる行政区域はマヤパン遺跡から少し離れたところにあって、域内には別の名前の小さい村がいくつかある。それらの村がマヤパン統治の時代からそこにあったか知らないが、スペイン人が侵略してマヤの人口が減少した後、スペイン人の子孫であるユカタン中央の支配層にマヤ人は奴隷扱いされている。奴隷扱いされていたマヤ人はどこに住んでいたのか? 農作業にこき使われていたマヤ人全員が支配層が住む街やアシエンダ(農園)の主人の屋敷のそばに住んでいたわけではなかろう。実際、メリダの街にはマヤ人が入れないエリアがあったし、カスタ戦争(1849-)のときにはあちこちの村で戦いがあったんだし。

で、そのマヤ人の「居住するだけエリア」について、昔はそんなものないとされていたし、比較的最近の研究も遺跡(ピラミッドとか)から大きく離れた場所を調査したことはなかった。今回の研究で、そういうエリアの人口や、移動などが明らかになった。ところで移動じゃなくて引越という言葉を使うと、人々が都市ごと棄てた…みたいな、例によって「ミステリアス」な話になりがちだ。実際は、マヤ人って個人レベルでしょっちゅう村から村へ移動していて、そういう文化は最近始まったわけじゃないと思う。

なんというか、王朝消滅!棄てられた古代都市!みたいな見方をやめれば、ロマンwはなくなるかもしれないが、この「人々の移動」なんか、太古から続く暮らしの一幕以外の何ものでもなく、別に珍しいことじゃないじゃんと思った。「知事とか都庁の位置変わったけどオレらずっと東京に住んでるし」とか、都心3区が一旦空洞化したあと高層マンションがニョキニョキ建ってやれ銀座だ六本木だ次は麻布台だ…ってのと少し似てるんじゃなかろうか。

今回の論文を読むと、1980年くらいまでの西洋人研究者たちは謎を解明!と言いつつ「ミステリアスな文明を扱ってる」的にちょっと酔いしれてたんじゃないかという印象を受ける。1950年以前の論文なんかは、今論文という言葉から得る研究のイメージと違って、「発掘!浪漫!」的なノリだ。その後も、技術レベルが違ったからもちろん判ることは限られていたんだろうが、すでに消滅した文明ってのを前提にしているのがすごく感じられる。そもそも、それら先行研究の著者が、西洋人ばかり(英語あるいはヨーロッパの名前)だし。

今回はマヤ人研究者がいる。昔の論文に「蜂蜜生産のための小さい土台等」と書かれていた遺跡(ピラミッドじゃないですよ)を、「石塀で囲まれた土地に小さい家が数戸」と解釈し直したのなんて、その研究者はわかりやすいヒントの蓄積がいっぱいあったんじゃないか。

 例えばこれ。

石塀の跡と、それに囲まれたエリアの中にある、家の土台らしきもの、家じゃなさそうなものを表してある。使われたモルタルの年代は古典期終末期かとか後古典期かとか調べている。ハッキリ言って敷地の使い方なんか、もろこの辺の家と同じ。石塀で囲った土地の中に小っこいマヤの家と道具や薪を入れておく小屋などがいくつか、まさに絵のようにバラバラと建ってて、他に家畜を繋いでおくための台座とかがある。「自宅以外の土地」には家らしきものはないけど何らかの「造ったもの」がある。今だと、水を溜めておく石製の水槽とか、ポンプを置く台とか。ホント、今でも図の通り。

これ、そのマヤ人の研究者には「そんなん、明らかに誰か住んでた家の跡じゃん…」ってなことだったのかなぁ。さらに、今回の研究グループは昔の白人探検者と違って、「そうそう、こんな小っこい家に何人もハンモック吊って寝てるし。もっと人口多い証拠!」とか思ったのかなぁ。おそらく昔の金持ち発掘者達にはそれが分からなかったんじゃなかろうか。いや、昔だろうと研究論文なんでハナから決めつけてたわけじゃないだろうけど、彼らの頭が想像できる範囲が違ってた、というか。

メキシコには、スペイン語化政策のために先住民言語の使用を禁止していた時期がある。「何民族だって言って喧嘩しない!みんなメキシコ人!」なので目的自体は悪くないが、やり方が先住民差別につながった。先住民が社会的に復権した後も、被差別感情は強く残っている。それはともかく、ずいぶん経った今でも、教育レベルの差はなかなか埋まらない。これからはどんどんマヤ人研究者に活躍してもらいたい。が、マヤ人だって皆が歴史や考古学をしたいわけじゃない。マヤ人であることに誇りを持っている人たちには、言語系に行ったり文化紹介系に行ったり芸術系に行ったり、いろんな人がいる。昔のことよりこれからのことの方が重要かもしれない。

ライダー(航空レーザー計測技術)の恩恵ってすごいから、解明の速度はぐんと上がってくだろうけど、研究者層も変わっていってほしい。考古学だけじゃなくていろいろ(マヤ語に関することとか)、「ヨーロッパの言語を使う人たち」の考えることには偏りがある。彼ら同士で別文化だと思ってるから(イギリスだアメリカだフランスだカナダだなど)、彼らには偏ってるという自覚がない。

日本からも留学や研究に来る人がいるけど、マヤ文明の範囲は広いのでグアテマラとかホンジュラスとか別のところに専門がバラけてしまう。英語の論文を読むの面倒くさいんで、ユカタン半島低地南部へ、来れ、日本人研究者!www

村祭り初日

2025年01月18日 | ユカタン諸々
年に2回の祭りが始まった。年明けすぐからなぜか市役所のお知らせが止まっているため、はっきりしたプログラムが分からない。おそらく例年と変わらないと思うが、まずは絶対に見逃したくなかった「御柱建立」を見にいった。狭い村とはいえ、ほとんどの村人の説明がいい加減ということもありw、どこで何をやってるのかあちこちで聞き回ってなんとか辿り着けた。ちなみにいい加減なのは、住所表記が機能してなくて「誰それんちのほう」とか言うし距離が非常に不正確なせいです。

 御柱。

初日に、一本の高いウアノを切り倒して臨時の闘牛場まで運び、その真ん中に建柱する。ユカタンの伝統であるコリーダ・デ・トロは、訳すと闘牛だが実際はカウボーイ技能の競技会で、場内に放たれている牛に向かってカウボーイたちが一斉に入場し、誰が一番早く縄をかけるかを競う。(写真は友達のFBより)

で、このウアノ切り出し、佃祭の大幟柱掘り出し&建立と似ているのでとても興味がある。去年の2回目の祭りのウアノ切り出しはうちの近所だったそうなんだが、日本に行っていて見られなかった。

 切り出し会場まで向かう群衆。

行列の長さ、200mくらい。住民がだんだん加わっていって、最後尾を村の警察の車がついてくる。先頭付近に音楽隊もいるが、この時点では聞こえてくるだけ。

 誰かの敷地の中ほど。

結構村外れだった。高いウアノとなると数が限られる(うちの高いのも建設前に切り倒して、残っているのは高さ6mほどの低めの木だけ)。お祈りとかああとかは特に何もせず、普通にチェンソーを使って切り倒した。

 てっぺんの葉の処理。

不要な葉を切り落とし、残した葉をまとめる。葉1枚だけでも結構重いんです、これが。今回の木は長さ9m、普段切り倒す木よりちょっと細い。

 障害物を退けて準備完了。

 男衆がつく。

 先っぽまで。

 少しずつ向きを変える。

いろんな木が生えている敷地の中なので、邪魔な木で切り倒せるものは切り倒してあるが、狭いところでは大変。

 木の間を通す。

 持ち上げる。

 道まで運び出す。

 音楽隊。

その間ずっと、短い曲を奏でては少し休み…の繰り返し。

 道でトラックに載せる。

日本の祭りだったら担いで行くところだが、そこは要領重視のメキシコw。

 群衆を引き連れて闘牛場まで。

そして最初の写真みたいに立てるんだが、それは次回のお楽しみにした。というか、佃の祭りだと掘り出しと建柱と大幟旗揚げは全部別の日で、祭りが近づいて気分が高まってくるのと相まって最高なので、今日のところはここまで…という気分になってしまった。

以下、写真は友達のFBより。

 ちびっ子バージョン。

 纏と牛(右の赤いやつ)。

こちらは村の中のどこかの家から臨時闘牛場まで。大人がサポートして、音楽隊もついていた。日本の祭りの子供神輿とか山車と同じですね。可愛いなぁ。

 カウボーイたち。

段ボールで作った馬を背負って、大人が扮した牛(上の写真の赤いやつを持って走る)を追う子供バージョンの競技会もする。

 バケリア(民族舞踊)。

夜はバケリア。メリダの観光客向けのイベントなどと違い、なんと全員がただの村民。こういう晴れの日のためにイピルの晴れ着バージョンも各自持っている。

 頭に飲み物を乗せて踊るダンス。

プロじゃないのにこのクオリティ。

 コンテストの後。

 見ていた人達も踊り出す。

さすがディープ・マヤ。

マヤの家

2025年01月16日 | ユカタン諸々
引っ越してきた当初、おお!マヤ文化!とヘラヘラ感動していたマヤの家だが、慣れてきてちゃんとよく見るようになったら、みんながみんな文化紹介に出てくるような小綺麗な家ではないと分かった。

 多いパターン。

トタンの棟板金。よそ者からすると掘立て小屋感がして、ハッキリ言って見苦しいと思う。ハリケーンが来ると風で外れてしまうことが多くて、棟だけ修理するのはすごく大変なのでずれたまま放ってある家も結構ある。概して、トタンを使ってある家の方が、屋根以外に出てきた劣化なども放っておきがちのようだ。

 朽ちてしまった家。

そんなに長い年月が経ったとは思えない。おそらく「すでに古くなった家」を住民が放棄してから5年くらい。

 火事で焼けた屋根。

最近、近隣の村で起きた火事では、ものの数分で全焼、土台を残してすべて焼け落ちたと聞いた。この家は出火原因やどう消火したかなどとても興味があるが、いつ前を通っても住民がいない。壁や土台や庭はきれいなので本当に謎。火事が起きたのが雨季でタイミングよく大雨が来たのかもしれない。

 近所のパン屋さん。

家(壁)の周りをモルタル敷きの土間にして、周囲をトタンやブロックなどで囲ってある。毎日中からパンを捏ねる音や焼いているいい匂いがしてくる。

 棟包もウアノ。

すごくかっこいい。

 壁がブロックのパターン。

前にも書いたが、これはいい案だと思う。マヤの家は土壁かモルタル塗りじゃなければ丸太を並べただけなんだが、凄く寒いと思う。ブロックだから形はいろいろ、これは四角だがお向かいさんちのは伝統的な楕円形。

 2階建てパターン。

こっちはそれほどよくないと思う。茅葺き等と同じで、屋根の下で火を使わないと劣化も早いし虫に悩まされる。ただでさえ高所なのにさらに高くて修理も大変だろう。

この辺の人、特に若い世代には現代建築(流行りのミニマリスタ)に憧れがある。でもアイデンティティを守るという意識も強く、その狭間で悩んでいる(無意識にでも)というパターンんじゃなかろうか。(そういう人は、例えばわたしのように興味津々で質問する人間には伝統文化について自慢気にガンガン語るが、そうでないよそ者にはマヤ語話者であることを隠す…といった感じ)

 壁だけマヤ式。

屋根はトタン板。これは珍しい。寒いし暑いし雨の音とかうるさいし、何の目的でこうなったか、まったく理解できない。敷地内には小さい家が複数建ってるので、物置にでもしているのか。屋根をウアノで葺くお金をかけたくなかったのかも。



植物たち(野菜)

2025年01月15日 | ユカタン諸々
家の建設前から敷地内には里芋らしき植物が生えていた。隣家との間にブロック塀を造るとき掘り出した土や岩の下敷きになって死んだと思ってたら、さすが芋だけあってまた元気に葉が伸びてきた。

 脇にも新しく出てきた(右)。

昨年末、葉が黄色くなってきたので収穫できるか掘ってみた。

 葉茎を切り落とす。

畑じゃないし、こんな岩ゴロゴロのところだし無理だとは思うが少しだけ期待。ちなみに村では、八百屋にはないがときどき採れたものや甘く煮たものを売ってる人がいる。

 結果。撃沈。

岩混じりでかわいそうに大きくなれなかった芋が長年地中で耐えていたのか、長さ5センチくらいのカチカチの芋がいくつかついてるだけ。たぶん、新しく生えてきたのも地中は似たような感じだと思われる。近いうちに畑をどこにするか決めて移植するか、売ってるのを買うことで我慢するか。葉が結構大きくなるので、とりあえず道からの目隠しと目に優しい緑ってことで、芋が取れなくてもここに残しておいた方がいいかもしれない。

 朝顔。

高さ8メートルほどの木に巻き付いて伸びた朝顔。さすが蔓草村だけあって、蔓植物の種類は半端ないが、朝顔も紫ピンク白青と、朝顔じゃなくて昼顔?夕顔?と、バラエティ豊か。

 シラントロ。

日本で言うパクチーですね。海辺の村では他州からの輸入物だったのか西洋パセリみたいな大きな束(しかし萎れている)だったが、この辺で売られているのはみんなこういう小さい束。新鮮なんだが、なんとも若いというか弱々しいというか。

 萎れてはいない。

我が家ではとーきどきなんちゃってナチョスを作るときに使う。今はこんな小さい束しか売ってないので、大量消費に最高なシラントロ丼(味の素の「無限シラントロ」に豚肉を足してご飯の上に盛る。めちゃくちゃ美味しいので一度試してほしい!)は残念ながら無理。

マヤ料理では、赤カブと一緒にみじん切りを柑橘類の果汁に混ぜたサルピコンというサルサで使う。シラントロはこのサルサにしか使わないが、このサルサはよく使うという微妙なニーズである。

 スープに入れたサルピコン。

なぜもっと大きく育つまで待って収穫しないんだろうと不思議に思っていたら、この辺では大きくならないらしい。

 手前がシラントロ。

この写真で収穫日なんだそうで、高さ10センチくらい。家庭では、だいたい古い洗面器に土を入れて育てるらしい。メキシコ料理に欠かせないシラントロだが、マヤ料理には元々はなかった材料なのかもしれない。

 マヤ料理でよく使うチリ。

クレマ・デ・カというクリームがめちゃくちゃ美味しかったので作り方を聞いたら、カというのはコチニータやピブなどに入れるシュカティックという唐辛子のことだった。マヤ語でシュはなんか接頭語みたいなやつで、この唐辛子の名前が kat、イイクが唐辛子なので言ってることは同じなんだが、マヤ以外のユカタン人にとってはシュカティックでマヤ語の人たちは名前の「カ」しか言わないということであった。

ハバネロほど辛くなく、ハバネロをわさびとするとこちらは山椒…みたいな大人の味で、その味と辛さのバランスがとてもいい。少々のニンニクと玉ねぎと一緒に焼いてすりつぶしてクリームに混ぜる。最高。

 友達の育てたハバネロ。

これが殺人級の辛さだった。わたしは生のハバネロ1個丸ごとを齧るくらい平気なんだが、こいつは辛かった。相棒は3ミリ角くらいの微塵切りを数切れスープに入れて、悶絶していた。

この辺の農家が生産しているようなのは高さ80センチくらいの苗木になる実だが、彼女のは萎れた葉がチョロチョロついている高さ1.3mくらいの貧弱そうな木だった。そのへんに辛さの秘密があるのか。実自体はアホみたいにたくさん取れるそうで、お土産にたくさんくれた。日頃柑橘類をくれる近所に配っといて正解だった。この辛さのハバネロを大量に消費するのは無理。お裾分けの残りは、2つは刻んで付け合わせ用、残りはラー油にした。

 道に落ちているオレンジ。

 みかん。

 苦いオレンジ。

とにかくこの時期、歩いていると村中の道がこういう感じで、最初はなんとももったいなくて拾いたくなるぐらいだったがもう慣れた。道にはみ出した枝から採る人もいない。みんな庭か「自宅以外の土地」に持っていて、売るためには手を入れざるを得ないが、面倒だと売り物を生産するのは諦めて、水を撒く以外何もせず放ってある。放っておいてもなるものはなる。日本人の友達に話したら拾いに行きたいと言っていた。上手くいかないものですね。

年末年始

2025年01月15日 | ユカタン諸々
ようやく、正月に発生した goo の不具合の影響から海外からのアクセス組も解放された。写真が溜まってるので、とりあえずささっと記録しておく。

 アニョビエホの人形。

 量産型。

上の写真のように手作りする家が多いが、忙しくて時間がない人なんかが買うらしい。この人形を、年が明けた瞬間に燃やし始める(前回の)。

 同時に花火。

 ランタンも。

 煙は爆竹の。

 うちの屋根から見た。

2寸玉くらいの小さいやつだと思うが、高い建物が一切ないので(おそらく二階建はうちを含めて1%くらい)、結構きれいに見える。花火よりアニョビエホ人形に仕込んだ爆竹の音がうるさくて、犬が可哀想だった。動物愛護の関係で海辺の村では「禁止」、メリダでも「なるべくやめろ」だが、田舎の村はそういうの一切関係ない。


 村境の峠あたりから村方面。

今年のお正月は、隣村の小山のてっぺんにある観光名所が閉まっているので、村はずれの尾根までいって初日の出を拝むつもりだった。天気予報で曇りだと分かってたし朝起きたらやっぱりダメそうだったが、いつも車でぷいーっと通り過ぎるだけなのでたまには…と行ってみた。

 こんな地平線。

正面はチチェン・イツァの方向。初日の出は右側の木があるあたりから出ると、元旦早々野良仕事に行ってたというおじさんから教わった(ってか、暗いうちから何を?)。

 右側の木のあたり。

この方角から太陽が出るという。地平線のダイナミックさには欠けるが、来年はここで見よう。

  帰ってくると、こう。

 あちこちにアニョビエホの跡。

ここの人たちは、こういうゴミを放っておく。現に、本日14日、道には燃え滓がまだ残っている。こっちの人達には2日から普通の日なので、賑わいなども通常通りに戻った。我々は、毎年恒例の「元日と2日の夕方に箱根駅伝を見ながらカレーを食べる」をした。

 ユカタンの駒澤くん。

隣村のテカシュで去年の終わりに開催されたマラソン大会。チャクムルトゥン遺跡から市役所を目指す。基本は山下りだが、写真を見る限り結構なアップダウンがありそう。この細い道に沿って、比較的住みやすいところにマヤの集落がポツポツある。


 お向かいさんちの子の誕生日会。

いつも誰かからクリスマスイブや大晦日の集まりに誘われるんだが、うちでは23日に相棒の誕生日があってその後は日本にいた頃のお正月同様またーりと過ごしたいので遠慮申し上げていた。何回も誘ってくれて悪いので(大勢の集まりが嫌い)、4日の誕生日パーティーにちょっと顔を出させてもらった。

 この倍くらいの人数。

 自転車のプレゼント。

お向かいさんはインターネット接続の商売をしてて、他の家と同じく「自宅とは別の土地」で生産もしてるので、ちょっと豪勢らしい。メキシコでは子供の誕生日パーティーを派手にやることが多いが、何度見ても「これを毎年、子供の人数分…」と感心する。招待客も慣れたもんで、司会を買って出たり(毎年同じ人かも)手伝ったりいろいろ。

 ピニャータ。

最近は知名度が上がって日本でもする人がいるみたいですね。ユカタンのピニャータは、日本で知られてるのとは違って、棒は使わないで素手で叩く。この写真は、今年ピニャータデビューする小さい女の子が大人に付き添われて叩く動作をする(手で触る)のを先輩たちが見守ってるところです。着膨れた子供達が背の順の並んでて可愛い。

 素手。

黒いジャンパーのフードを被った少年がマリアんちの遷都くん2歳で、アシストしているのがお向かいさんちのバースデー・ボーイ四歳なりたて。可愛い。

あとは日本のドラマを見たりしてまったりと過ごしました。今年もよろしくお願いします。