まだ完璧とは言えないが家の建設そのものに関係する諸々はほぼ片付いたので、総まとめをしておく。
ちなみに設備外構建具以外、基本的に発注すれば全部建てててくれる、日本でいう大工さんみたいな人をアルバニィエルという。工法が違うので、用語的には組積工になる。
まず前提として、海辺の村の家はLさんに全面的に面倒を見てもらった。Lさんは、メキシコへ来て初めてできた友達で、ちょうど土建屋で、かつ当時は連邦の与党の知事が公共工事を地元ユカタンの業者でなく中央の会社にばかり発注していたのでユカタンは不況で暇していた。子供の頃からアルバニィエルのお父さんを手伝っていて、そのまま独立(当時は資格なし)したが、立場としてはアルバニィエルのチームを監督するエンジニアである。そのとき毎日のように現場に行って見学し、家が建った後も他の現場を見せてもらった。
その後、うちの周りで新築工事が始まるたびに、行って監督やアルバニィエルたちと仲良くなっていろいろ見せてもらったりした。最後は隣地の米人おばさんの現場に張り付いて観察した。すべて、現場監督の下にアルバニィエルのチームというスタイルである。
この村には大学で建築を専攻した(資格ありとほぼ同意語)人はいない。地元には工業高校があるが、建築士や監督でなくアルバニィエルとして働くための知識を学ぶ。学校で教育を全く受けずに現場で経験を積んだり、基本的に農業に従事してるがしょっちゅう現場を手伝ったりして、今ではベテランという人もいる。
というか、そもそもこのあたりでは建築士の出番があるような家はない。ヒルベルトに「建てる人を誰か」と相談したときも、何の疑問もなくアルバニィエルの親方を紹介してくれたし。
最近になって、ようやくメリダかどこかの設計事務所が作ったオサレな建売程度の設計の家がポツポツ増えてきたが、遠いので設計事務所はうちの親方みたいな「元請けになることに慣れている」アルバニィエルに丸投げする。
そういうわけで今回の新築にあたり、現場監督という立場で動く人間もほしかったが、この辺にはいないし、Lさんは井戸掘り屋として忙しく飛び回っているし、メリダで雇ったら高い移動費を請求されそうなので、監督はなしにした。…長かったけどここまで前提。
まず困惑したのは、この辺の村の発注スタイルである。ある程度の金ができたら、それで出来る分だけ仕事してもらう。基礎までだったり、壁までだったり、屋根までだったり、内外壁下地までだったり。頼んだ分の工事が終わると、人によって「金ができたらまた連絡する」とか「米国に行ってる息子からいついつ金が入るんで、それまで工事は一時中止」となる。メキシコではオブラ・ネグラ(未完成家屋)として珍しい話ではないが、この辺ではこれがデフォ。アルバニィエルはそういう現場をいくつか同時に抱えて、あっち行ってこっち行ってまたあっちに戻って…なんてことを繰り返す。一軒竣工したら次の現場…じゃないのである。
これを知らなかったので、うちの基礎掘りが始まって10数名が来たとき、こんなに大勢なら海辺の家より早く終わるかも…などと期待し、途中で一部が別の現場に行っていると知ったときはストレスを溜めた。
そして今思えば「金ができたら」スタイルでは、内外壁の下地(我々のいうペチペチ)が終わって最低限住める家ができると、ここまででいいやと考える人間が多い。金を惜しんだり、自分たちでやる(ペンキぐらい塗る)気になったり、面倒だからそのまま住んでしまったり。もっと言えば、最低限住める家なんで、そもそもそれで完成でいいと考える人間も多い。ヒルベルトんちも下地まで。
壁と屋根があって炊事用の蛇口がどこかにあってトイレがあれば、住める家。(でなければマヤの家…というのが、この辺の住宅事情)。
そうなると、アルバニィエル達にとって「躯体ができた後の細かいことはおまけ」になる。実際その頃になると設備屋や建具屋が入り、一度やったところに開いた穴を埋めるとか細かいことを直すといった作業が増えてくる。当然、士気は上がらない。がさつな田舎の土建屋にとって、もろ力仕事である基礎や棟上げなどと比べると、つまらない仕事なのである。
田舎の…ついでに、もうひとつ気づいたことがある。うちの親方に限らず、この辺のアルバニィエルは自分達の仕事をしょっちゅう自画自賛する。だいたいFBに、「素晴らしい出来」だの「人生で大事なのはしっかり働くこと」だの「汗水流して働くことの尊さ」だの「建築士には分からない、人としての価値」だの、己の誇りを再認識し合うためのフレーズを現場の写真とともに載せる。どんな職業でも自分の仕事に誇りを持つのはいいことだが、他の地域では「我々はいい仕事をしまっせ」ともっと営業目的の表現になる。ここではもっと人生がらみ、格言みたいな感じ。各々が自画自賛し、仲間とその家族が全員でいいね!するので、仕事がらみの投稿(現場写真)にはどえらい数のいいね!がつく。
マヤ人も「ユカタンの田舎者」もアルバニィエルという職業も、下に見られることが多い。本当は、昨今のポリコレ風潮で面と向かってバカにされることは減ってきているだろうし、そもそもこんな僻地にいれば直接バカにされる機会もない。が、下に見られる人間であるという認識を彼ら自身が持っていて、たとえ仲間内だけであろうとそれに反発する発言を繰り返して己を鼓舞するのである。
我々の現場の場合、設備がらみや仕上げの細かさ(曲がってたらダメ、揃ってなかったらダメ、色が違ったらダメ、etc)など、「つまらない仕事」の段階で「施主からの要望」がどんと増えたことになる。
施主からの要望とはいえ、我々からしてみれば海辺の村での暮らしを踏まえて元から考えていたことだから発注時に親方には話してある。やった経験が設備屋にないと後から知った仕様も、親方には最初から伝えてある。彼らにとって「この辺の家ではしない作業」だと分かり始めていちいち確認するようになったんで、なおさらうるさく感じたかもしれない。
「えー!?、親方に言ってあったのに…」という我々の反応が増え、常日頃自画自賛し合ってる自信満々チームの面々にとっては、ムカッとくることがしばしばあったんではなかろうか。中には分かりやすい人もいるんでw、もちろん尋ね方言い方には気を使ったんだが、こっちもメキシコでの2軒目の家となれば「よしとする」わけにはいかないことも多い。
その上、地面に棒っ杭埋めて葉っぱで屋根を葺いた家に今でも住んでいる人たちである。衛生観念が違うのも大きい。工事品質以前に、水が染み込むこと自体に何の問題も感じないとか。
あとはまぁ、マヤ人って半島内で自給自足してきた人達なんで、ありすぎて売ったら儲かったとかなくて困ったという経験がない。余った食べ物はそこらへ捨てておけば肥やしになる。建設現場に限らず、あまり物を大切に扱わないのはそこから来ると思う。もったいない精神の日本人には、見てるだけでストレスになった。
結論を言うと、万事日本のような高品質を望めないのは当然だが、メキシコはOECDの一員だし、まぁまぁの都会もあるし、最近はガイジンも増えてきたし…と、「大丈夫だろう」と思ったのがいけなかった。ユカタンの田舎の土建屋のレベルを過信していた。彼らが悪いとかそういうことじゃない。まぁ、2日で終わらせると「約束」したのを破ったのは、メキシコ人が聞いてもよろしくないことだろうが、作業員全員、日本語で言う「悪い人間ではないんだけどね〜」なのは確か。
単純に、無理だったんだと思う。どこか発展途上国のまだ近代化されていない村で、高機能住宅や高級ホテルや最新工場などを村人だけで造れといってもできないのと同じ。いや、我々の家はそんな大層なものじゃない。が、最先端じゃなくて彼らが出来るよりほんの少し上なだけのレベルだろうと、できないものはできないのである。
ほんの少し上ならこの機会に勉強してやってみるってことはしない。勉強しないどころか、分からないんで無視を決め込み、いつまでたっても完成しなかったり酷いときは違うことをしていた。抑圧され続けてきた時代とそれへの反発という、歴史的背景と関係するかもしれない。頑張ったって難題が多すぎるという、地理的ハンディから来るのかもしれない。建築に限った話じゃないので、おいおい観察していくつもり。
恐るべし、ディープ・マヤ。日本人、平和ボケならぬ高品質ボケ。
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お風呂にドアつけました。重かったですw。