マヤ文明というのはユカタン半島だけじゃなくて南のグアテマラやベリーズ、ホンジュラスまで、広い範囲で栄えていた。ユカタンのマヤ語はユカテカマヤという(それぞれの地域のマヤ語に名前がついている)。メキシコの多くの地域と違って、ここではあまり「先住民の!」文化的に特別扱いしない。もちろん政府は大切に保護する姿勢を取っているが、一応地方都市であるメリダはともかく、住んでいるあたりではマヤ語を話す人も結構いるし、料理や行事なども、普通にずっと続いている伝統的なものが多い。
なので、これまでは「ユカタン半島の」マヤ文化をつらつらと学んできたし、なんとなくユカタン文化的にひとまとめにごっちゃになっていた。が、ここんとこ南部の村に足を運んで、その辺の村側が発する情報に接して、実は奥深いと分かってきたので書いておく。先住民文化なんてのはメキシコに限らず第三者の声だけが大きいこと多々ある。ここは政治的な思惑というより(突き詰めればそうだが少なくとも国内事情)で、まぁ日頃ネットで目にするのは「観光業界視線」です。
隣のカンペチェとキンタナロー州と一緒に独立していた(メキシコじゃなかった)ときの旗。正式な国旗あるいはスペインからの独立運動の象徴…とか、どう使っていたか正確には忘れてしまったが、とにかくユカタンのアイデンティティを象徴するものとして今でもときどき使われる。
で、独立していた頃(1840年と1847年の2度)のユカタン政府というのは、侵略者スペイン人の子孫、つまり支配階級で、マヤ人は彼らに酷くこき使われていた。メリダ中心部は、スペイン植民地時代から支配階級だけが住んでいたエリアで、その外側とは隔てられていた。
先住民に対する仕打ちに関する話はメキシコ中にあるが、ユカタンでは特にひどかったという。理由は、スペイン植民地時代、アステカなんかと違ってマヤの都市には財宝や鉱物などが一切なく労働力以外に搾取できるものがなかったこと。さらに、時が下ってメキシコが独立したときも、独立を目指した層というのは要は支配階級の人々だったわけだが、中央からアクセスが悪く、遠く離れた半島ということもありメキシコ新政府になってもその目が届かず、やりたい放題だったのだという。ちなみにメキシコシティからベラクルスというメキシコ湾側の港まで陸路で1週間、カンペチェまで海路で3日、カンペチェからメリダまで再び陸路という遠さ。
アシエンダといって古い大農園がユカタンにはたくさん残っていて、最近の投資ブームで大きな屋敷を改修してホテルなんかにもなってるが、当時のマヤ人の苦労を考えると「きゃーステキ!」とか手放しで褒められない。
そして一時なれども独立したユカタン政府、要は多少混ざってはいるが「白人」という支配階級に対抗すべく、マヤ人は反乱戦争を始めた。カスタ戦争という。これがなんと50年も続いた。
どこかの小さい村を通過するとき、家の中に貼ってあるのをちらっと見かけた。ただの飾りかと思って(ほら、メキシコ人ってクリスマスや誕生日の飾りつけをいつまでも放っておいたりするんで)スルーしてしまっていた。
それもそのはず、最近我々が足を延ばしているあたりは、カスタ戦争でマヤ人の被害が特に甚大だったところだという。血なまぐさかったという形容詞がよく使われる。カスタ戦争については端折ります。
能天気にユカタンの旗〜などと言って愛でていたが、マヤ人にとっては憎き支配階級の象徴だったのである。あ、もう今さらどうこういう人はあまりいません。今はメキシコの「みんなメキシコ人!」政策がうまく行って当時の恨みとか先住民を虐待したとか言うことがあっても、非難対象は当時のスペインがほとんどです。ちなみにさすが元宗主国、メキシコとスペインは思ってたよりすごく関係が密で、いろんな統計でも隣国アメリカに続いて2位ってなことが多い。謝れとかバカなこと言ってるのは大統領だけ。
そういうユカタン南部の、メリダとの関係や、隣のキンタナロー州南部との一体感なんかについて、これまでに村々を訪問してちらほらと目にした事象が、歴史的に繋がってることが少しずつ分かってきた。
ちょっと話が長くなりすぎるのでとりあえずこの辺でやめる。今後も何か学ぶたびに書いていくつもり。(アシエンダについても、オシャレだ文化だといいことばっかり書いてある観光資源扱いが多いので)
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