
先週末、フラフラ出かけておきながら、人ともほとんどふれあう場面もなく、ほんとに旅をしたのかどうかさえわからないのですが、旅はして来ました。何の旅なんだろう。気晴らしだったのか、やむにやまれずだったのか。
世の中では、コロナが拡大しているというウワサはあります。うちの奥さんなんてもうカリカリしています。暑いけど、マスクは必需・必携にしている。私は、人に会う時はマスクをしているはずですが、息苦しくて、口から外してみたりして何のためのマスクなのかわからなくなっています。
なのに、何もないみたいにオリンピックだらけになりました。あの、すべてチャラにしてアスリート礼讃、メダルラッシュみたいな見方・言い方がアホらしくて、にわか勉強で適当に人を扱っているよなと、白けてしまうのでした。

裏金議員たちはどうなったんでしたっけ? もうすべてなかったことにして選挙までダンマリを続けるようです。そうしたら、「みんなすぐに忘れるさ」と思っていて、選挙で〝みそぎ〟(彼らの言い方)されたら、新たな裏金探しを始めるでしょう。裏金作りの大先生がかつていましたからね。あの人がいなくなっても、みんなあの人のようにまたやりたいと思っている。
人って、偉いお方も、私みたいなアホウな人間も同じで、いつまで経っても学ばないようです。
不倫やら、エッフェル塔議員は? 離党で解決したそうです。それで解決したのか、昔だったら、反省した形にして辞職して責任をとる。みたいにしていた。けれども、いつの間にか、地位は捨てないで責任を取るという言い方をするようになりました。そして、実は全く何も変わらない。反省の弁だけにする。こういう何もかも許されるという形が認められてしまった。
私なら、すぐにクビにするところだけれど、岩手の人たちはクビにするだろうか? そこが読めないところです。人々をさんざん裏切っておいて、いいとこどりばかりして、「何もかも許してね。悪いようにしないから」という言葉を信じるのか。絶対にウソばかりだと思うけどなあ。
世の中は、そんなにいい加減でいいのですね。知らなかった。
いや、議員さんにまでなったら、かなりのことが許されるみたいです。悔しかったら議員さんになってみろ、ということかな。私はなれそうになくて、昨夜などはノドが痛いような気がして、すっかりその気(コロナ?)になっていました。
朝になってみれば、ノドの痛さは何ともない感じです。旅の疲れだったのか。ただの疲れたオジイ?
どっちにしろ、すべての感覚が曖昧になりました。痛いのか、おいしいのか、どんな違いがあるのか、いろんなことがうまく説明できないのです。
知覚過鈍で、自分のことなのに曖昧で確かさがありません。なんてことでしょう。あらゆるもの、外界も自分の中も。こんなでは何が起きても、「ああ、そうだったのか。知らなかった」と諦めるしかないじゃないですか。自分のことなのにわかってなかったのだから。
こんななら、コロナになったとしても、何が起きているのか他者・お医者さんに話せないです。

この不確かで曖昧な尾根道をたどるのですね。踏み外すと命の危機。どうにかこうにかテクテク歩いていくしかないのです。
1・尾根みちを遠くと足もと交互に見ていのちをつなぐつもりで生きる
2・坂道はひとつひとつが苦しくて斜めに歩き小さく歩き