甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

われは一人 平城京跡 初夏の風

2014年04月30日 21時55分24秒 | 大和路を歩く
 平城宮跡には、中3の秋の遠足で初めていきました。1974年の11月6日でした。40年前になるんですね。中3で初めてクラス委員長になり、号令かけたり、集会で点呼をとったり、なんだか急にリーダーになったような気持ちでいたものでした。偉くなったわけでもないのに、心の中では威張っていたような気がします。本当に、人間の思い上がりというのは恐ろしい。

 どうして、受験生の秋なのに、平城京跡へ遠足に行ったのか? 先生方の選択ではありましたが、何だか落ち着かない感じでした。遠足で行きつつも、どうして何にもない平城京跡に行くのだろう。どうしてその他のお寺ではないのだろう? と、そのころからお寺マニアだった私は思っていました。とはいえ、みんなで行くのだから、どこも同じなわけで、どこだってよかったのです。

 実はそれほどカリカリしていなくて、遠足のしおりにたっぷり時間をかけて、現地で歌う歌の歌詞とか書き込んだり、表紙にわけのわからない絵を描いたり、ムダなことをたっぷりしています。今もその遠足のしおりが残っていて、本当にムダばかり昔からしていたのだなと思わせてくれます。まあ、ムダをするための人生であり、ムダがなきゃ、おもしろくありませんね。

 例によって40年前の記憶は何もなくて、ただクラスのツンとおすましした背が高く、一見美人さんの誇らしい顔が思い出されます。記念写真の中の彼女は、それくらい誇らしい顔をしています。近鉄で西大寺まで行き、そこから何もない平城京跡まで歩き、発掘したものを研究するような建物を見学して、お弁当を食べて、走り回って帰ってきたのでしょう。


 数年前に父母と一緒にそこへ行くまで、何十年も足を踏み入れていませんでした。何度も近鉄の車窓からは見ているのに、そこへ降り立つということができていませんでした。門ができたり、大極殿が復元されたり、何となく昔の都の跡っぽくはなっているようでした。

 秋篠寺からの帰りに、西大寺の駅を遠目に見ながら、方角を考えて歩いてみました。途中で成務天皇陵と垂仁天皇陵へも足を伸ばしたので、方角がわからなくなってしまったものの、遠くの三笠山や大極殿が見えるので、めざす方向はわかっていました。もうこうなれば早くたどりついて、芝生の上で母の作ってくれたお弁当を広げることを楽しみに歩いたのです。



 そして、到着すると、大極殿は遠目に見ただけですし、朱雀門はボランティアガイドのおじさんにお話を聞かせてもらい、それで大いに満足して帰ってきました。そうなのです。もう古本屋さんに行くことが大目的に変わっていたので、観光はそこそこで、近鉄を線路の脇から何枚か撮ったら、もう観光気分は残っていませんでした。それに、奥さんに早く帰ると宣言したこともあって、14時くらいにはこちらを出たかったのです。



 写真をいくつか撮って、ものすごいゆったりした(ムダな空間をたっぷりとった)都のあとだなと思い、これくらい余裕をもった空間にしないと、中国の人たちに笑われるとでも思ったのだろうと想像し、ゆとりのある空間は実感できました。でも、都を一歩出れば、クチャクチャした市街地があったと思います。でも、とりあえず正式空間だけは立派にした、というところなんでしょう。



 そんな立派で雄大な空間を、大和の山々は四方から囲んでいて、その中心に都があるなんて、中国にはできない細やかさです。日本の都では、山が見えないとダメですね。東京だって富士山や筑波山にあこがれ、みんなが高いところに上って山を探しているじゃないですか。私たち日本人はいつまでたってもそういう感覚で生きているのだと思います。どんなに都市化したって、IT化したって、モダンになっても、山や川や、細やかな自然がないとダメなんだと思います。



 たくさんのカップルや家族連れ、若者たちがいました。みんなが何かしようと、バレーボールでパスの練習をしていたり、こどもとおいかけっこしたり、ゴロッと昼寝をしたり、奈良公園ではできないことをしていました。奈良公園で寝っ転がるなんて、それはもう恐ろしいことですが、ここではそれができます。のんびりとした初夏、タンポポの綿毛が飛び、ムクドリの集団が何度も巡回していました。ヒバリも私が歩くたびに草むらから飛び上がってくれて、初夏の日差しを忘れて歩いていましたっけ……。

 


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