埋まっているひとに関係なく、きまって「ごめんなさい」と謝っている。
墓参り、の話だ。
親不孝を承知でいえば、3年にいちどくらいしか「かーちゃんの墓」と対峙していない。
いないにも関わらず、敬愛する表現者の墓とは積極的に対峙している。
鎌倉は安養院に眠る黒澤。
同じ鎌倉にある建長寺塔頭回春院に眠るのは大島渚。(トップ画像…でっかい石が目印よ。これはオオシマが生前に選んでいたそうだ)
またまた鎌倉に眠る小津は円覚寺。
川崎の春秋苑で岡本喜八とも対峙した。
漱石の墓(雑司ヶ谷霊園)には3度くらい行っている。
最初に訪れた際、絵に描いたような文学「美」少女が居て、2度目はその子に再会したくて行ったんだけど…。
猥雑な街でワイワイやっているのが性にあっているが、その穢れた心身が清められるといったらいいのか、2ヶ月に1度のペースで著名人の墓参りをするのを趣味? としているのだった。
あまり好きなことばではないが、自分にとってのパワースポットなのだろう。
特別なことをするわけではない、ただ花を供え、黙祷するだけ。
こころのなかで「ごめんなさい」といってね。
ほら、またいってる。
そのことばしか浮かばないのだ。
なぜか。
肉親であればそれも分かる、生前のアレヤコレヤを詫びるというのは「よくあること」だろうから。
しかしこっちは知っていても向こうがまったく知らない、そんな間柄であるにも関わらず「ごめんなさい」っていうのは、なんか妙だよね。
多大な影響を受けたのであれば、「感謝しています」ということばこそ相応しい。
その作品に繰り返し触れているのであれば、「大好きです」でいいだろう。
しかし、そういうことばは浮かばない。
よく分からないけれど、謝りたくなる。
「いろいろ、ごめんなさい」って。
じつに奇妙だが、そうすることが礼儀であるかのように捉えている映画小僧なのだった。
それはともかく。
年中「すいません」「ごめんなさい」と謝っているひとって居るよね。
なにが起きても謝らないヤツ・実力もないのに偉そうにしているヤツより好感が持てるものの、平身低頭が過ぎてもどうかと思う。
口癖になっているのかもしれない、とりあえず「謝っておこう」と。
だとするならば、そういうひとほど本当に申し訳ないとは思っていない、、、かもしれない。
自分はどうだろうか。
昔はそういうところがないでもなかった。
反論するよりも謝ったほうがラクだと思って。
オオシマなんか謝っておいてマイクで殴るんだからね、見習わなければいけない? 気もするが、最近「すいません」も「ごめんなさい」も日常生活で発していないかもなぁ、、、なんて。
根拠のない自信とやらが邪魔をして、謝るべきところで謝っていないのでは?
だから―なのかもしれない。
墓前に立ったときに浮かぶことばが、「ごめんなさい」だけなのは。
そういえば最近の映画で『謝罪の王様』(2013)というのがあった。
現代日本を皮肉っていて面白かったが、佐村河内某や小保方某、少し前では峯岸某の謝罪会見(あるいは謝罪動画)は「見世物」としては面白いのかもしれないが、「見世物」として完成されていればされているほど謝罪の本気度が疑われるというか、観ていてとても不思議な感覚に襲われる。
佐村河内某…ただただ笑った。
小保方某…痩せてキレイになったな、と思った。
峯岸某…ちょっと異様だが、いろいろ巧いなと思った。あのままの髪型だったら、自分は彼女推しになったかもしれない。
ほれ、謝ったことについてなど、どうでもよくなっているし。
結論。
謝罪のことばを吐くことは、愛の告白よりも数倍難しい・・・のかもしれない。
※E-girlsって、総勢何人?
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『ブルマ礼賛』
墓参り、の話だ。
親不孝を承知でいえば、3年にいちどくらいしか「かーちゃんの墓」と対峙していない。
いないにも関わらず、敬愛する表現者の墓とは積極的に対峙している。
鎌倉は安養院に眠る黒澤。
同じ鎌倉にある建長寺塔頭回春院に眠るのは大島渚。(トップ画像…でっかい石が目印よ。これはオオシマが生前に選んでいたそうだ)
またまた鎌倉に眠る小津は円覚寺。
川崎の春秋苑で岡本喜八とも対峙した。
漱石の墓(雑司ヶ谷霊園)には3度くらい行っている。
最初に訪れた際、絵に描いたような文学「美」少女が居て、2度目はその子に再会したくて行ったんだけど…。
猥雑な街でワイワイやっているのが性にあっているが、その穢れた心身が清められるといったらいいのか、2ヶ月に1度のペースで著名人の墓参りをするのを趣味? としているのだった。
あまり好きなことばではないが、自分にとってのパワースポットなのだろう。
特別なことをするわけではない、ただ花を供え、黙祷するだけ。
こころのなかで「ごめんなさい」といってね。
ほら、またいってる。
そのことばしか浮かばないのだ。
なぜか。
肉親であればそれも分かる、生前のアレヤコレヤを詫びるというのは「よくあること」だろうから。
しかしこっちは知っていても向こうがまったく知らない、そんな間柄であるにも関わらず「ごめんなさい」っていうのは、なんか妙だよね。
多大な影響を受けたのであれば、「感謝しています」ということばこそ相応しい。
その作品に繰り返し触れているのであれば、「大好きです」でいいだろう。
しかし、そういうことばは浮かばない。
よく分からないけれど、謝りたくなる。
「いろいろ、ごめんなさい」って。
じつに奇妙だが、そうすることが礼儀であるかのように捉えている映画小僧なのだった。
それはともかく。
年中「すいません」「ごめんなさい」と謝っているひとって居るよね。
なにが起きても謝らないヤツ・実力もないのに偉そうにしているヤツより好感が持てるものの、平身低頭が過ぎてもどうかと思う。
口癖になっているのかもしれない、とりあえず「謝っておこう」と。
だとするならば、そういうひとほど本当に申し訳ないとは思っていない、、、かもしれない。
自分はどうだろうか。
昔はそういうところがないでもなかった。
反論するよりも謝ったほうがラクだと思って。
オオシマなんか謝っておいてマイクで殴るんだからね、見習わなければいけない? 気もするが、最近「すいません」も「ごめんなさい」も日常生活で発していないかもなぁ、、、なんて。
根拠のない自信とやらが邪魔をして、謝るべきところで謝っていないのでは?
だから―なのかもしれない。
墓前に立ったときに浮かぶことばが、「ごめんなさい」だけなのは。
そういえば最近の映画で『謝罪の王様』(2013)というのがあった。
現代日本を皮肉っていて面白かったが、佐村河内某や小保方某、少し前では峯岸某の謝罪会見(あるいは謝罪動画)は「見世物」としては面白いのかもしれないが、「見世物」として完成されていればされているほど謝罪の本気度が疑われるというか、観ていてとても不思議な感覚に襲われる。
佐村河内某…ただただ笑った。
小保方某…痩せてキレイになったな、と思った。
峯岸某…ちょっと異様だが、いろいろ巧いなと思った。あのままの髪型だったら、自分は彼女推しになったかもしれない。
ほれ、謝ったことについてなど、どうでもよくなっているし。
結論。
謝罪のことばを吐くことは、愛の告白よりも数倍難しい・・・のかもしれない。
※E-girlsって、総勢何人?
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『ブルマ礼賛』