fromイーハトーヴ ーー児童文学(筆名おおぎやなぎちか)&俳句(俳号北柳あぶみ)

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伊藤洋子素描展 於秋田日赤病院2Fミニギャラリー

2018年08月10日 | 日記


 秋田日赤病院2Fミニギャラリーで、17日までやっています。
 私は、先日秋田に来て、すぐに行ってきました。素描の枚数は7、8枚と少ないですが、本当に心が洗われます。素描の下には、原稿用紙に自筆で書いた散文があります。散文というより、散文詩。
 前回も感銘を受けましたが、今回も。

 一つをご紹介します。 

  袋はいつも

 若い頃は、対象に『挑む』気持ちで、描いたり作ったりしました。
 何年か経って、対象をすきだという気持ちが強くなり、「寄り添う」気持ちで描くようになりました。
 なんだか少しわかったような気持ちになっていました。何と嘘くさいこと。「寄り添ってあげるワタシ」の目線で、いい気になっていたようです。
 少し何かを得たと思っても、しばらくするといつもすべてが嘘になるのはどうした訳か。
 年を重ねることのイメージとして、空っぽの袋の中に、「知識」や「気づき」を少しずつ詰めこんで、だんだん袋が充実していくのではないかと思っていました。ところが、何か「気づき」を得て、喜んで袋に入れようとすると、中にあるちょっと前のお宝は、すでに嘘になっている。入れた時は、優しく冷たくキラキラしていたはずなのに、今はどんよりとして腐臭さえ発しています。放り出すしかありません。袋はいつもスカスカです。
 ワタシはろくなことを考えない。だから今はできるだけ、「ワタシ」を消して対象に近づきたい。よく見ようとしているのに、見ているワタシを消そうとするなんて、おかしな話です。表現しようとすることには、どうしても「ワタシ」がつきまといます。その中で「ワタシ」を消すにはどうしたらいいのか。「ワタシ」が対象になれるはずはないけれど、その過程でしか見えてこない何かがある気がします。 
 でも、これもいつか嘘になるのかもしれません。否、今はむしろ、いつか嘘になれと、思っています。  
   

 そしてその日、秋田句会があったのですが、主宰の辻桃子先生もいらっしゃいました。二次会で話しをしているうちに、ほぼ同じ話になっていました。
 私たちは、俳句を作るとき、写生をしなさいとよく言われます。でも、写生にも、段階があり、最初は目の前にあるものをあるがままま写す。でもそのうち、目の前にある茄子を写生するとき(たまたま突き出しで茄子田楽があった)、「この茄子になるの」(桃子)。と。

 「ワタシ」を消すということなのです。簡単なことではありません。邪心があってはダメ。でもそうあらねば、本物はできないのでしょう。  

  

 伊藤洋子さんは、この絵で有名になるとか、飯の種にするとか、認めてもらおうとか、そういうものが何もありません。絵の前を何人もが、ただ通り過ぎていきました。でも、何人かは立ち止まり、洋子さんの心に触れて、何かを感じてくれるでしょう。それでいいのです。

 この文章に触れていただいて、もしも、秋田日赤に行くことができる方、ぜひ。

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