マアコをリターンしたのは、
土曜日の静かな朝だった。
おはようございます。
人気のない環境でリターンするのが好ましいと思い、金曜日に避妊をした。
案の定、土曜日の会社は静かだった。
私は、走り去ったマアコをしばらく探し、また車庫の奥に引っ込んでしまったデッカに
「デッカ、また来るね。」
と声を掛けて家に戻った。
そして帰るなり、キャリーケースを持ち出して、車に積んだ。
万が一、マアコが戻って来なかった時、デッカを保護するための部屋の準備も始めた。
「やるなら、月曜日の夕方になる。」
私は、おじさんにそう告げ、
呑気に寝ている我が家の猫らを見渡して、
「いったん、地獄絵図になるで~。」
と言って、笑ってみせた。
避妊を強いたのは、私の勝手だ。
そのせいで、この親子の運命を引っ搔き回してしまったかもしれない。
それどころか、私がマアコと約束さえしなければと後悔が過った。
幾度も繰り返してきた、様々な約束すべてが、
私の過ちの元だったのかもしれない。
「これからお前はマアコ。名前を付けるってことは責任持つってことだ。」
そう宣言して以来、いくつもの約束をした。
・絶対に、毎日ご飯を持ってくる約束。
・夏に産まれた子猫らを託してもらう約束。
・秋に産まれた、最後の子は決して奪わない約束。
・決して、マアコを騙したりしないという約束。
そして今は、「必ず戻ってこい」と約束をしている。
他にも、書くほどでもない約束は数々ある。
並べてみると、まったく私の勝手な都合ばかりだ。
しかも、去年は子猫の保護が続き、我が家の猫も体調を崩した。
外でも内でも、私の勝手で引っ掻き回してしまい、
いたたまれなくて、もう、笑うしかなかった。
しかし、父からの電話攻撃は笑っていられなかった。
「もう運転するのはやめて欲しい。」
と、伝えた日以来、
一週間、父はもはや半狂乱だ。
朝から酒を煽って、電話を掛けまくって来る。
何度も何度も、何を言っているのか聞き取れない言葉を繰り返す。
挙句に、この日は、
「さっき、警察署行って来たら、休みだってよ。
免許更新はできんらしいから、明日また行ってくらぁ。へへへへ・・・」
と、ろれつも回らない状態でのたまった。
「ちょっと待って。朝もビール吞んでたよね?そのまま、運転して行ったの?」
私は、スマホを持ったまま叫びながら家を飛び出し実家へ向かった。
「父さん、本当にもうダメ。車のキーをよこして。」
「ばかやろう。お前みたいな何の苦労も知らん脳のない奴が、
そういう下らんことを簡単に言いやがる。」
その後は、省略する。
地獄絵図のような言い争いが続いただけで、なんの進展もない。
しかし、日が傾きかけた頃、私は、
「あっ、もう行かないと。」
と言って、父との言い争いを唐突に切り上げ、実家を後にした。
デッカの夕飯の時間だ。
さすがに、リターン当日にマアコが現れるはずはないから、
デッカのご飯だけを持って、会社へ行った。
会社に着き、車を降りるなり、
「デッカ!」
と、車庫に向かって叫んだ。
名前を呼ぶと、やっぱりデッカは車庫の奥で泣いていた。
でも出ては来ない。
私は、父との言い争いのせいで、
身体中に刺さった無数の棘を剥がすように、大きく深呼吸をした。
そして、もう一度、デッカを呼ぶ。
「デッ・・・・んん?」
「ニャッ」
「マッ・・・マアコ?」
なんと、マアコが現れた。
リターンして、たった7時間後、
マアコは、いつもの時間に、ごく当たり前のように現れた。
「マアコ、もう戻って来たの?マアコ、おかえり。体は大丈夫かい?」
そう言うと、マアコは分かっているのかいないのか、目を細めて、
「ニャン」
と鳴いた。
その声が、いつもよりしゃがれていて、
病院でさぞや激しく鳴いていたのだろうことが想像できた。
私の声も、連日の父との言い争いで、すっかりしゃがれていた。
そして、デッカも24時間、泣きじゃくって、すっかり声が枯れている。
「デッカ、お母さん帰って来たよ。」
デッカがついに、車庫から出てきた。
マアコが居なくなり車庫の奥に籠城して以来、24時間ぶりに当たる太陽だ。
眩しいだろうに、デッカの眼は太陽よりも輝いていた。
そして、デッカは躊躇なくマアコに駆け寄った。
「よし!」
私は思わずガッツポーズを取った。
が、その数秒後・・・
デッカ「ふー、うぅー」
マアコに威嚇した。
この瞬間、私とマアコは、
「へっ?」
だ。
そして、次の瞬間は、
「あっ!」
だった。
マアコの被毛にこびり付く病院の匂いのせいで、デッカはマアコを認識できないのだ。
ふーふーううー唸りながら後退りしていくデッカ。
マアコは私に、
「どしよ?」
と言わんばかりの視線を送ってきた。
私は、
「取りあえずチュール舐めて落ち着こう。」
と言って、急いでチュールを取り出した。
いついかなる時もチュールは頼りだ。
チュールは偉大だ。
マアコは、チュールを1本舐めきり、
そそくさと階段を降りて行き、地面に体を擦り付ける。
「そうだ、さすがマアコ!」
そこは、マアコとデッカが排尿する場所だ。
マアコは、デッカに自分を気付かせようと懸命に臭い付けをし、
私はデッカに、
「ほら、見てごらんよ。マアコだぞ〜。ほらほら、マアコだぞ〜。」
と言い聞かせた。
デッカ「あれは母ちゃんか?ほんとに母ちゃんなのか?」
結局、デッカの疑いは拭い切れぬまま、
そのくせ、ゆっくり歩いて行くマアコについて行った。
恐る恐るだが、シッポをピーンと立たせているデッカを見て、
「あれなら大丈夫。」
と安堵して、帰った。
しかし、安堵は夜中に吹き飛ばされた。
父は酒を呑み続けたせいで、ついにぶっ倒れ、
父よりボケ具合がハイレベルなかずこが、
救急車を呼ぶことに成功してしまう事態となった。
けれど、ただの酔っ払い相手に、救急隊員は優しかった。
「病気じゃなくて良かったですよね。」
私は、怒りにわなわな震えながら、何度も謝罪をした。
もちろん、父は病院へ搬送されず、寝床まで運んでもらった。
翌朝、実家へ行くと、父さんの右まぶたが腫れていた。
私は、
「顔から倒れたんやな。父さん、昨夜の事覚えとる?」
と聞いた。
どうせ、覚えてないだろう?を含む聞き方だ。
ところが父は、
「覚えとる。」
と、小さな声で答え、ソファにうなだれた。
そのまま、
「分かっとるんだ。分かっとるが、どうしても納得がいかん。
自分の1番大事なもんを奪われたら、俺全部を否定された気分になる。
いや、分かる。お前は一生懸命やってくれとる。
その上、お前に面倒かけたらあかんと分かっとる。
すまんなぁ。でもどうしても、ホイホイと簡単には納得できんのだ。」
と続けた。
その時、私の脳裏にはマアコの姿が浮かんだ。
そして、ハッとした。
「私も苦しい。
誰かの大事なもんを奪うって、こんなに苦しいんかってくらい苦しい。」
マアコとの、これまでの苦悩と、父への苦悩が重なり、
この時ようやく、分かったような振りして、父を責め続けていた自分に気付いた。
本当に苦しいのは私じゃない。
「何が合ってて何が違うかは分かんない。
ただ守りたいもんのために、私はこんな事しか出来んのよ。」
そう言葉を絞り出すと、父はソファから立ち上がり、
棚の引き出しから車のキーを2つ取り出した。
「ひとつはスペアキーな。どっちも持ってってくれ。
目の前にあると、またボケて、全部忘れて乗っちまうからよ。」
そう言ってテーブルに置かれたキーは、2つとも傷ひとつ無かった。
17年落ちの愛車を、キーさえも大切にして来た証だ。
私は、それを丁寧にカバンの奥へしまった。
現在、マアコとデッカは、すっかり日常に戻っている。
とはいえ、デッカのマザコン振りは、増したかもしれない。
父は、少し気持ちが落ち着いて来たように見える。
その上、以前より悪態をつく頻度はうんと減った。
でも、酒の量は減らない。
もう少しこのまま、気が済むまで待つことにする。
私は、猫との約束は、もう懲り懲りだと思っている。
ただ、マアコと約束しなければ、
今私は、この場に立って居なかっただろう。
マアコの強さと愛に触れ、父の苦しみと覚悟を知った。
その全ての景色を、私は見ることが出来なかったに違いない。
そんな中、様々な人に励まされ、幾人かの人に出会い、
多くの助けを得られたことも、忘れてはいけない。
そして、私はきっと、また懲りずにマアコと約束を交わすのだろう。
その節は、またよろしく、マアコ!
完
長い長い記事を読んで頂き、ありがとうございました。
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