気付けば、4月なんて、とっくに過ぎている。
おはようございます。
このブログの端っこのプロフィールは
毎年、4月に更新することにしている。
産まれた月は、それぞれバラバラだが、
ざっくり4月から、歳を1歳プラスする。
そして、居なくなった者は、プロフィールから外す。
ようやく、書き直す気になった。
ある夜、私は猫らを遊んでやろうと、
おもちゃ箱をまさぐっていた。
おもちゃ箱に頭を突っ込む猫を制しながら、
「あやさん、遊びたいな。待て待て!」
と声を掛けた。
最近は、何かと忙しくて、あまり猫らと遊んでやれていない。
罪滅ぼしのためだから、とっておきのおもちゃで遊んでやろうと思い、
箱の奥から新品の猫じゃらしを引っ張り出した。
その時、黒くて長い被毛の塊が綿毛のようにふわりと宙に舞った。
ゆっくりと空中を下降する被毛を目で追い、
床に落ちた瞬間、一気に涙が溢れ出した。
ポロリポロリなんてもんじゃない。
目頭から目尻の幅分の涙が、はやい速度でとめどなく流れ落ちていく。
それはまるで、ナイアガラの滝だった。
「たれ蔵・・・」
そう絞り出したが最後、
私はしばらく、たれ蔵を呼びながら泣いていた。
何度も何度も呼びながら。
失うということは悲しく切ない。
それは痛みとも言えよう。
愛しい君との記憶が、滝のごとく、この身を打ち付けるのだ。
痛いのは嫌なのに、忘れたくない君との過去だ。
これはどうしたらいいのだろう。
私は戸惑う。
涙を流し続けるべきか、せき止めようと試みるべきか。
ふと我に返ると、はしゃいでいた猫らが、
私を囲んで静かに座っている。
手に猫じゃらしを持ったまま、窓の外に目をやると、
おぼろ月が、流れる靄の隙間から、いたずらっぽく覗いていた。
その月は、まるで、あの子の瞳だった。
私は、おぼろ月を見上げたまま、
「遊ぼう!遊ぼう、たれ蔵。」
と呟いた。
結局、私は涙をせき止めることも忘れ、
ナイアガラの滝の涙は流れるまま、夢中になって猫らと遊んだ。
楽しかったね、たれ蔵。
たれちゃん
なんだか私まであの黒くて美しい猫さんを思い出して、切なくなりました。黒猫さんに憧れ、いつか一緒に暮らしてみたいと思っていたけど、夢は叶わず、残念だったという思いをひとり勝手に、おかっぱさんとたれちゃんの暮らしをブログを通して見ることで、
解消していたのかも?と感じちゃいました。
たれちゃん可愛い猫さんでしたね!
それにしてもおかっぱさんの文書表現は素敵です♥
おかっぱちゃんの突然の大号泣は、たれちゃんとの本当のお別れができたのかもしれないと、かあちゃんは勝手に思いました。
チャー坊ちゃんの壮絶な介護の末の別れにボロボロになっているおかっぱちゃんに、これ以上の悲しみを与えてはいけないと、たれちゃんはおかっぱちゃんの感情から、たれちゃんを失った悲しみを薄めていたのかもしれない。
でも今、チャー坊ちゃんへの悲しみも癒え始めたタイミングで、たれちゃんは被毛を通して本当のお別れをおかっぱちゃんとしたのかもって勝手に思ってしまいました。
いっぱい泣けて良かったね✨
この涙はたれちゃんの計らいだから、無理に止めてはいけなかったんだよ。
たれちゃんもとても嬉しかったと思うよ。
本当に勝手な私の解釈を許してくださいね。
もういないんだね。
知ってるよ。ポンちゃんだっていないもの。
だけどたれちゃんと一緒で
ポンちゃんも時々部屋の隅っこの方から
ふわっと現れるんだよ。
「忘れてんじゃにゃいだろうにゃ~バカまま~」って
声が聞こえてきそうな感じで。
そんな時、おばちゃんもわぁ~って
泣いちゃうよ。
かあちゃんはたれちゃんとまた会いたいなぁって
思いながら泣いちゃったんだよ。
だから許してあげてね。
愛しい子は、目の前からいなくなっても
永遠に愛しいよね。
過ぎたと思った日常に、確かにいたはずの
痕跡が、本当に気まぐれに落ちていたりしますよね。
結局過去になんて出来なくて、痛みは痛みの
まま、鮮烈に思い出せるのですもの。
途中まで拝読させて頂いて、あ、これは駄目だ。
と思いつつ読んでしまい、最後にたれちゃんの
画像で涙腺崩壊しました。
無垢な瞳の良い子でしたよね。
本当に良い子すぎました。
だから神様が早く連れて行っちゃったのかなー。
藤田麻衣子さんの『おぼろ月』を思い出しました。
私も、ながらく黒猫に憧れを持っていました。
桜吹雪さんも、たれ蔵の生活を、そんな思いで
見守ってくれていたのが、凄く嬉しいです。
4年間、たれ蔵を見守って下さって、
ありがとうございます。
夜の、ささやかなひと時でしたが、
たれ蔵を感じた時間だから、大事に書きました。
ありがとうございます。
いえいえ、素敵な解釈を授かって嬉しいです。
ありがとうございます。
実際、私はたれ蔵を亡くしてから、この夜まで
こんなに泣いたことが無いんです。
お別れの瞬間でさえ、ここまで泣かなかった。
かあちゃんのおっしゃる通り、チャー坊の後だったから、
たれ蔵の死を可哀そうという感情は違う気がしたんです。
若いのに大病で苦しみ、その部分は可哀そうなんだけど、
可哀そうという表現はたれちゃんに付けたくなかった。
それは今もなんですが、だけど、あの夜、
痛いくらい淋しかったんです。
きっと心の奥にあった感情がやっと浮かび上がってきたんでしょうね。
たれ蔵め、やっぱり我が家の優等生ですね。
本当に、すんばらしい猫でした。
ままんとは、なんだろう?
大変な時ってのが、事は違えど、よく被る気がするんですが、
こんなことまで、同じ時期に迎えちゃうなんてね。
でもほんと、居なくなった子を感じる時、
居ない現実が迫って来ちゃうんですよね。
私は、こんなに泣いたのは、たれ蔵を亡くして初めてだった。
嬉しいんだけど、淋しくって会いたくなっちゃいます。
でもきっと、ポンちゃんもたれ蔵も、
まだまだ時々、感じさせてくれると思う。
「どした?頑張れ」ってそんな時、
きっとメッセージを送ってくれると思います。
特にポンちゃんは、きっと。
ほら、うちはさ、極楽組が多いから、
たれ蔵も、極楽がマジ極楽で、楽しんじゃってると思うし(笑)。
ポンちゃんが「全然感じられんけど」って時は、
たぶん、うんことドルチェ食べてます(笑)。
泣いていただいちゃって、すみません。
とても切ない記事、私も泣きながら書きましたが、
切なく悲しいけれど、たれ蔵が居た痕跡が愛おしくて
残しておきたいと思い書きました。
形のない記憶だけど猫が、不意に形として現れると、
ここには、もう居ないことを思い知らされますよね。
だからといって、絶対に忘れたくない過去。
時間をゆっくりかけて、向き合い付き合っていくのですよね。
ありがとうございます。
たれ蔵はたった4年の生活でしたが、
最高に素敵な猫でした。
痛くとも、決して忘れません。
1分たりともあますことなく、
あの子の4年間の記憶を
この身に覚えていたいなって思います。