映画の記事が続きます
先月、銀座テアトルシネマで上映、順次全国公開、のフランス映画、
エリック・ロメールの「我が至上の愛~アストレとセラドン」Les Amour d'Astree et de Celadon
を観たのは1月29日。
スルーするには惜しい映画でしたので、ここでちょっと振り返っておきます
ヌーヴェル・バーグ世代の監督の中でも「カイエ・デュ・シネマ」の創刊者・初代編集長を務めたロメールは知性派として知られる存在。
みずみずしい映像感覚と愛についての知的な会話が楽しめる、いかにも、なフランス映画を撮り続けてきた1920年生まれの彼は、今回の作品で映画監督としてのキャリアに幕を下ろすそう。
「海辺のポ-リーヌ(1983)」「緑の光線(1986)」「夏物語(1996)」「木と市長と文化会館、または7つの偶然(1992)」「パリのランデブー(1995)」など・・・恋愛映画、というよりは恋愛論映画の巨匠という独自の路線は万人に受け入れられるものとは言い難かったかもしれませんが、ずっと気になる作家でわたくしはフォローし続けてきましたが・・・。
今回の作品の原作は、17世紀文学サロン、特にパリの貴婦人たちの間で大流行したというオノレ・デュルフェの大河ロマン『アストレ』(Astrée)。
映画の中で主人公アストレについて、両親が村の有力者で、その必要はないのに心の平穏のために羊飼いをしている、という設定がでてきますが、当時はアストレのように、羊飼いでありながらも最高級の宮廷人のように話すというのが理想とされたそうです。
・・・といえばマリー・アントワネットの”プチ・トリアノン”の田園趣味が髣髴とされますが・・・。
17世紀のサロン作家が描く5世紀のローマ時代のガリア地方(旧フランス)での恋のおはなし。
ロメールがこの小説を改めて読み返して、自分が今まで撮り続けてきたテーマ「貞節、忠誠(フィデリテ)」と原作のテーマが同じであること、そして原作の会話の意外な現代性と美しさにを発見して映画化を決意。
理想化された田園風景と神話の中の人物のような登場人物たち、詩的な会話、恋心のすれ違い、恋のさや当て、が当時のロワール地方を思わせるオーベルニュ地方の豊かな自然の中、美しい画像と古楽の調べとともに展開されていきます。
羊飼いのアストレとセラドンは恋人どおし。
ところがアストレは誤解から、セラドンが浮気をしたと思い込み、「私の前にもう二度と現れないで欲しい」と拒絶。
絶望したセラドンは入水自殺を図るが、城に住むニンフ(精霊)に助けられ、死を逃れていた―。
容姿端麗な彼は城主である貴婦人に気に入られ、村へ戻ることを許されない。
ドルイド教の僧侶の姪で城主に仕えるレオニードの計らいで脱出。
森の庵でアストレを想う詩を綴るセラドンを不憫に思ったレオニードとドルイド僧が、アストレに会う機会を彼に与えようとするが―。
周囲の女性を虜にする美貌の持主でありながら一途なセラドンに、モデル出身の新人アンディー・ジレ。そして、そんな彼を魅了する魅力あふれるアストレには、ベルギーの大作家マルグリット・ユルスナールを大叔母に持つミュージシャンのステファニー・クレイヤンクールが抜擢。
ともに演技は初めて、としつつも流れるようなロメールの演出に、優雅な時代の美男美女として嵌まっています。
それにしてもセラドン、頑固で一途すぎ。
そんな彼を放っておけない周囲の協力がまた涙ぐましいのですが、元来青春とは頑迷なものなのかも・・・そしてそれを知る大人たちにとってその姿はまぶしく、かつての自分を想って応援せざるを得ない気持ちにさせられるのかも・・・と思わされました。
精霊の女城主ガラテ様(上の画像セラドンを挟んで左)のローマ衣装の着こなし、セラドンへの身勝手な愛情、優雅な立ち居振る舞いには惚れ惚れします・・・
観た後、しばし、心は理想化された5世紀のガリア地方へ飛び、古楽の調べが耳に残ります・・・
突っ込みどころは色々ありますが、蓮見重彦先生も
「爆笑をこらえてこの艶笑喜劇(21世紀のルビッチ!)を楽しむには映画のいい加減さに対するまともな感性を備えていればそれで充分だ」とおっしゃっていることですし・・・(笑)
マリー・アントワネットの連想がでたところで池田理代子さんの評も引用してバランスをとっておきましょう。
「純愛とはかくもエロティシズムに満ちたものだったのかと感動させられる。
オルフェスとエウリディーケの神話を見るようだった」
ともに納得、です。
先月、銀座テアトルシネマで上映、順次全国公開、のフランス映画、
エリック・ロメールの「我が至上の愛~アストレとセラドン」Les Amour d'Astree et de Celadon
を観たのは1月29日。
スルーするには惜しい映画でしたので、ここでちょっと振り返っておきます
ヌーヴェル・バーグ世代の監督の中でも「カイエ・デュ・シネマ」の創刊者・初代編集長を務めたロメールは知性派として知られる存在。
みずみずしい映像感覚と愛についての知的な会話が楽しめる、いかにも、なフランス映画を撮り続けてきた1920年生まれの彼は、今回の作品で映画監督としてのキャリアに幕を下ろすそう。
「海辺のポ-リーヌ(1983)」「緑の光線(1986)」「夏物語(1996)」「木と市長と文化会館、または7つの偶然(1992)」「パリのランデブー(1995)」など・・・恋愛映画、というよりは恋愛論映画の巨匠という独自の路線は万人に受け入れられるものとは言い難かったかもしれませんが、ずっと気になる作家でわたくしはフォローし続けてきましたが・・・。
今回の作品の原作は、17世紀文学サロン、特にパリの貴婦人たちの間で大流行したというオノレ・デュルフェの大河ロマン『アストレ』(Astrée)。
映画の中で主人公アストレについて、両親が村の有力者で、その必要はないのに心の平穏のために羊飼いをしている、という設定がでてきますが、当時はアストレのように、羊飼いでありながらも最高級の宮廷人のように話すというのが理想とされたそうです。
・・・といえばマリー・アントワネットの”プチ・トリアノン”の田園趣味が髣髴とされますが・・・。
17世紀のサロン作家が描く5世紀のローマ時代のガリア地方(旧フランス)での恋のおはなし。
ロメールがこの小説を改めて読み返して、自分が今まで撮り続けてきたテーマ「貞節、忠誠(フィデリテ)」と原作のテーマが同じであること、そして原作の会話の意外な現代性と美しさにを発見して映画化を決意。
理想化された田園風景と神話の中の人物のような登場人物たち、詩的な会話、恋心のすれ違い、恋のさや当て、が当時のロワール地方を思わせるオーベルニュ地方の豊かな自然の中、美しい画像と古楽の調べとともに展開されていきます。
羊飼いのアストレとセラドンは恋人どおし。
ところがアストレは誤解から、セラドンが浮気をしたと思い込み、「私の前にもう二度と現れないで欲しい」と拒絶。
絶望したセラドンは入水自殺を図るが、城に住むニンフ(精霊)に助けられ、死を逃れていた―。
容姿端麗な彼は城主である貴婦人に気に入られ、村へ戻ることを許されない。
ドルイド教の僧侶の姪で城主に仕えるレオニードの計らいで脱出。
森の庵でアストレを想う詩を綴るセラドンを不憫に思ったレオニードとドルイド僧が、アストレに会う機会を彼に与えようとするが―。
周囲の女性を虜にする美貌の持主でありながら一途なセラドンに、モデル出身の新人アンディー・ジレ。そして、そんな彼を魅了する魅力あふれるアストレには、ベルギーの大作家マルグリット・ユルスナールを大叔母に持つミュージシャンのステファニー・クレイヤンクールが抜擢。
ともに演技は初めて、としつつも流れるようなロメールの演出に、優雅な時代の美男美女として嵌まっています。
それにしてもセラドン、頑固で一途すぎ。
そんな彼を放っておけない周囲の協力がまた涙ぐましいのですが、元来青春とは頑迷なものなのかも・・・そしてそれを知る大人たちにとってその姿はまぶしく、かつての自分を想って応援せざるを得ない気持ちにさせられるのかも・・・と思わされました。
精霊の女城主ガラテ様(上の画像セラドンを挟んで左)のローマ衣装の着こなし、セラドンへの身勝手な愛情、優雅な立ち居振る舞いには惚れ惚れします・・・
観た後、しばし、心は理想化された5世紀のガリア地方へ飛び、古楽の調べが耳に残ります・・・
突っ込みどころは色々ありますが、蓮見重彦先生も
「爆笑をこらえてこの艶笑喜劇(21世紀のルビッチ!)を楽しむには映画のいい加減さに対するまともな感性を備えていればそれで充分だ」とおっしゃっていることですし・・・(笑)
マリー・アントワネットの連想がでたところで池田理代子さんの評も引用してバランスをとっておきましょう。
「純愛とはかくもエロティシズムに満ちたものだったのかと感動させられる。
オルフェスとエウリディーケの神話を見るようだった」
ともに納得、です。