3月2日。土曜日。さわやかな晴れ模様。
午後のドライブ・・・ 『明石大橋』
霧の中にかすんで見える世界一長い大橋。 午後二時半。
今日も、教会での勉強会の前のひと時、時々思い立つと走らせるように、明石大橋を訪れました
本土から淡路島にかかる姿が、神と大地を結ぶ、雲の中の『虹』のようです。
『神の御言葉』を思い出します。
『神は言われた。
「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしとなる。
すなわち、わたしは雲の中に虹を置く。
これは、わたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。
わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた『永遠の契約』に心を留める。
水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。」』
創世記 9章12-17節
”あなたを決して忘れることはない。約束のしるしに虹を置く。”と、言われる神。
”今日も来ました。あなたの約束の虹(橋)を眺めるために。”と、感動する私です。
そして。
海辺に座って・・・
昨日・3月1日。金曜日。聖書100週間の『モーセの生き様』を、思いめぐらしました。
昨日の通読範囲は、出エジプト記25章~34章でした。
モーセの偉大さに、圧倒される箇所です。
モーセの偉大さその①。 モーセの『二本の角を付けた顔』です。
『モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、
自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。
モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。』
出エジプト記 34節29章
『モーセ像』
聖ピエトロ寺院 ミケランジェロ作品。
ミケランジェロの『モーセ像』には、
たくましい骨格と力強い筋肉の圧倒的な姿に、『二本の角』が生えています。
モーセは、
シナイ山で、神の顕現に接し、顔と顔を合わせて話をし、
四〇日四十夜飲まず食わずで、『十戒』の『言葉』を二枚の板に刻み付けていたのでしょうか、
その板を持って、民の下に降りてきた姿は、『角二本』の姿でした。
意訳された『光輝いた』は、ヘブライ語の原書では『角のある』だそうです。
ミケランジェロは、聖書を、原書のヘブライ語で読んでいたのでしょう。と言われています。
『モーセの角』は、モーセが神の顕現に接したことの『象徴』なのでしょうね。
神は、モーセと顔と顔を合わせて語り そして 『十戒』の刻まれた板をモーセに託します。
神とイスラエルの民の間に、『契約』が結ばれたのです。
なぜ? 主は、モーセを招き、『十戒』を託したのでしょうか?
主は、イスラエルの民を、エジプトから脱出させ、『主に仕える主の民』にしようと、お考えになりました。
でも、
イスラエルの民は、エジプトで奴隷生活をしていた頃は、
日々の食べ物があれば良しとする、臆病で、自主性がない民だったのかもしれません。
主は、そんな民を教育しなくてはなりません。
そんな時。
『十戒=神の命令』は、
イスラエルの人々は、『律法』の出現により、自分の罪を自覚するようになり、
罪の許しは、自力では不可能で、神の許しに依り頼む、『信仰者』へと成長していったのではないでしょうか?
イスラエルの民に、『進むべき道』を教える『指標』になったのではないでしょうか?
イスラエルの人々は、『十戒』を与えられた者としての自覚とプライドを持ち、
独自の文化と国とアイデンティティーを築くことを悟ったのではないでしょうか?
イスラエルの人々は、『十戒』に導かれて、厳しい砂漠の中で、鍛えられ、
自己確立を果たし、心身共に強い人間に育っていったのではないでしょうか?
イスラエルの民は、エジプト脱出の恩恵を忘れることなく、『律法』を守るべき生活規範として与えられたのです。
『わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います。』と、民は一斉に言った。
モーセの偉大さその②。 モーセは、『キリストの前表』と言われます。
モーセは、神の民・イスラエルを救出するために、神からエジプトに派遣されるとき、
『わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりにする。』出エジプト記7-1 と、神に言われました。
キリスト様も、人類を救出するために、神からこの世に派遣されました。
『キリストの前表』と称される、モーセの姿。
それは、『自己犠牲』です。
神は、
シナイ山で、モーセに、御自分の指で記された石の板:『十戒』を、モーセにお授けになったのです。
ところが。
『モーセが山からなかなか下りてこないのを見て、
民が、民に先立って進む神々を造ってください、と願い、
アロンは、若い雄牛の鋳像を造った。
主は、
「私はこの民を見てきたが、実にかたくな民である。私の怒りは燃え上がっている。私は彼らを滅ぼし尽くす」と言われる。
モーセは、
「燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください」と、主なる神をなだめた。
主は、ご自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。』のです。
出エジプト記 32章1-14節
モーセは・・・
神のご自分の民への怒りを受け止め、その上で、それでも、民に代わって、許しを願ったのです。
主は・・・
モーセの願いにこたえて、民に下す災いを、思い直されます。
しかし、
『神は、主につくレビ族以外の者およそ3千人を滅ぼします。
その翌日、
モーセは、民に言った。
「おまえたちは大きな罪を犯した。今わたしは主のもとに上っていく。お前たちの罪のために償いができるかもしれない。」と。
モーセは、主のもとに戻って言った。
「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。
今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるならば・・・。
もし、それがかなわなければ、どうかこの私をあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」と。
出エジプト記 32章25ー32節
モーセは、”自分の命を償いとして受け取り、民を救ってください!” と、神に嘆願するのです。
常に『祈るモーセ』
『命の書』から自分を消し去ってくださいと、『自己犠牲』を神に申し上げます。
イエス様が、十字架上の死を償いとして、人類を救ったのと同じです。
常に、山に退かれて、『祈るイエス様』です。
『自己犠牲』は、お人のための愛の行為、他者中心の愛で、『アガペー』と呼ばれます。
モーセは、民の救いと引き換えに、『命の書』から我が名を消し去ってください、と神に頼みます。
イエスは、人類の罪の贖いのために、十字架上での死を遂げ、
究極的に、自己犠牲に至る『献身的な愛』=『アガペー』を示されました。
更に。
モーセの偉大さその③。 モーセは、民のための『願い』を、神に嘆願なさるのです。
モーセは、民のために、神の裁きを思い留まっていただくのです。
主の怒りは、民を3千人滅ぼすだけではなく、まだ続きました。
今までは、
『主は、民に先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって民を照らされた』13-21のですが・・・
『主はモーセに言われた。
「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。しかし今、
わたしがあなたに告げた所にこの民を導きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立っていく。」』
出エジプト記 32章33&34節
主は、これからは罰として、今までのようにご自身ではなく、主の使いが道案内をする。
・・・と言われるのです。
そんな主に、モーセは、再び、嘆願します。
『モーセは言った。
「あなたはわたしに、この民を導いて上れ」と言われました。
あなたは、また、
「わたしはあなたを名指しで選んだ。わたしはあなたに好意を示す」と言われました。
お願いです。
わたしはどのようにして、あなたが私に好意を示してくださるか知りうるでしょう。
あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。
そうすれば、
わたしとあなたの民は、地上のすべての民と異なる特別なものとなるでしょう。」
主はモーセに言われた。
「わたしはあなたのこの願いもかなえよう。
わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである。」』
出エジプト記 32章33節~33章17節
主は、モーセの願いを聞き入れ、今まで通り、民と共に歩んでくださることになりました。
モーセは、決して自分のためではなく、いつも、民の利益のために、主に嘆願するのです。
主は、そんなモーセを信頼し、ご自分の裁きを思い留まってくださるのです。
エジプトを脱出した、イスラエルの民は・・・
前に進む、前進しかないのです。
神が約束された『約束の地』は、荒れ野の先にあるのです。
『約束の地』にたどり着かなければ・・・
民をエジプトから救い出し、シナイで民を『ご自分の民』とされた、『神のご計画』は成就しないのです。
私たちも、祈るときは、まずは、お人のために祈りましょう。
主は、そんな私たちを信頼して、私たちに向ける裁きを思い留まり、
『約束の地』まで、必ず、導いてくださいます。
以上。明石大橋を眺めながら、又、聖書100週間の感想として、
モーセの偉大さを考えました。長々とお粗末様でした。
皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
お一人でゆっくり物思いにふけったりする、お気に入りスポットがおありですか?いいものですよね。 お元気で!