マリアテレジアの独り言

日々の生活の中で見つける・・
  小さな感動をつづります。

大学授業 (5月7日)

2008-05-07 17:39:12 | 父の日。母の日。結婚記念日。
    デカルトの核心に入ってきた授業は、難しくなってきました。

『普遍的懐疑』
全てを、徹底的に疑うというのです・・・その結果、もはや疑うことの出来ない真理を見いだす。
実生活では、極めて不確実と分かっている意見にでも、それが疑いえぬものであるかのように、従うことが、時として必要である。
しかし、真理の探究を望む時は、ほんのわずかの疑いでもかけうるものは、全て絶対に偽なるものとして疑ってみる。

1:「懐疑の対称を、基礎的原理に絞り込む」
・・・・今、自分が部屋で座って居ること、自分の手足が在ることを疑ってみる!・・それは、狂気のことのように思える。

2:しかし、「狂気と夢の類似性から、自己の身体の感覚への懐疑可能性を正当化する」
・・・・狂気を持たないにしても、夢の中で狂人の妄想に近いものを経験していないか?っていうのです。  目覚めている時に見ているものと、夢の中のものは、本質的に区別する基準は在るのか? ないはずです・・・・
だから、自分の座っていることも、手足が在ることも、疑ってみることが出来る。ってことになるの!?

3:「夢の仮定を通して、表象に内存する『単純本性(数学的カテゴリー)』を、取り出す」
・・・・われわれが今現実には、実は夢を見ていると仮定し、すべて真でないとしても、いろいろの実際の行動の中に、非常に単純な普遍的な 「真なるもの」 があるはずである。 と言うのです。
例えば、画家がいつも塗る色を調べると、塗る色にはバリエーションがあっても、その中に基本的な普遍性がある。はずだと言うのです。 その普遍性を数式に表してみることが出来る、というわけです。 それは、ある真なるものとの類似性において作られている。 数学の真理は、偽とされない。

ここで、授業の半分です。
授業では、難しい言葉が沢山出て来ました。 それらの言葉は全部省いて、優しくかいつまんでまとめてみました。 
全てを疑って、真なるものが自分の力で認識出来ない限り、この省察にとどまり、偽に同意しない。・・・ってことです。!!

授業の後半は、『単純本性』を見いだす方法を、学びました。
哲学のクラスですよね? 数学や幾何学のクラスではないですよね?  って思うほど、数学の公式を学んでいるのかなと勘違いするような授業でした。
「三段論法」までは、私も理解出来ました。 「デカルトの原理」(命題Pを知る)まで来ると、難しい!!
単純本性(数学的カテゴリー)を、見つけるまで、進んで行くしかありません!!
本を読み直して、どうにかクラスについて行きます。


私には、”存在するものを、先ずは疑ってみる” てことが出来るかしら?
デカルトは、しがらみを裁ち切ることの出来る外国の田舎で、思索と瞑想の日々を過ごさなければ無理です。と言います。
凡人の生活を送る私には、到底無理かもしれません。

授業は、面白く、緊張と集中の中、瞬く間に終わりました。  終わったら疲れました!
写真の、文学部校舎の中庭のベンチに座り、お水を飲みながら、思索と瞑想をしばしば楽しみました。
デカルトの思索と瞑想の方法は、私の思索と瞑想を深めてくれる材料にはなっています。
”では、家に帰り、美味しい食事をつくりましょう!”



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