9月17日。木曜日。曇り一時雨。
戻ってきた日常。
常日頃の・・・ 『我が机の上』
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/c5/2b16e59985798c042a201bc6cc665627.jpg)
聖書とノートとペンとノートパソコンと大型モニター
なんと有り難く、嬉しいことか。
明日から『聖書通読会・聖書100週間クラス』の再開です。
1985年9月3日から、 35年間、毎週金曜日、 途切れることなく続いた
『聖書100週間』と共にある、 私の『日常』でした。
『神の御言葉』と共に生きる の勉強に追われる、『日常』でした。
ところが、
コロナ禍で、 3月~9月まで6ヶ月半の間、 『日常』が途切れました。
私にとっては、 『生きがい』をもがれた、 『悪夢』の6ヶ月半でした。
『生きがい』とは何だろう?
「生きることに価値や意味をもたらす源泉や対象としての事物」
又
「その源泉や対象が存在することにより自らの生に価値や意味があると感じられる感情」
心理学者・井上勝也の『言葉』より
現在は、若さを失った高齢者の多くが、
自己否定感に苛まれる事なく日々を過ごしている。
高齢者が穏やかに『老い』を受容できるのは、
それぞれの持つ『生き甲斐』が、
老いや喪失感への拮抗因子として働いていると考えられている。
心理学的『老人学』より
なるほどね。 こんな風にも書かれています。
高齢者の『生き甲斐』の特徴のひとつに
「失われやすさ」がある。
例えば、
孫の成長が生き甲斐だった場合、
孫が大人に近づくにつれて自分の役割は減少していく。
初老の頃に始めたスポーツが生き甲斐となっても、
老いとともに継続が難しくなる。
高齢者にとって、『生き甲斐』は常に『喪失』と隣り合わせである。
年を重ねて、年齢に卑屈になることなく、毅然たる老人になりたいものです。
聖書を読みながら・・・
健全な精神で、強い心で、信心深く、ありたいものです。
生きがいを追求しながら・・・
日々新たな始まりに向かって、確実な日々を重ねたいものです。
明日から『日常』がもどり、 『喪失感』も消えて、 『聖書三昧』の始まりです。
明日はエゼキエル書13章~24章です。 感謝!感謝!
そして。
今日は9月17日。年間第二十四木曜日。
『今日の入祭唱』
『わたしは主を愛する。
主は嘆き祈る声を聞き、私に耳を傾けてくださる。
生涯、わたしは主を呼ぼう。』
詩編 116章1&2節
『今日の福音 イエスの御言葉』
『そのとき、 あるファリサイ派の人が、 一緒に食事をしてほしいと願ったので、
イエスはその家に入って食事の席に着かれた。
この町に一人の罪深い女がいた。
イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/88/fccb433effbc6a232ea54452ebe5703a.jpg)
『シモンの家での食事 』 Frans Francken the Younger作品
香油の入った石膏の壺を持って来て、
後ろからイエスの足もとに近寄り、
泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、
イエスの足に接吻して香油を塗った。
イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、
「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、
どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」 と思った。
そこで、イエスがその人に向かって、
「シモン、あなたに言いたいことがある」 と言われると、シ
モンは、 「先生、おっしゃってください」 と言った。
イエスはお話しになった。
「ある金貸しから、 二人の人が金を借りていた。
一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。
二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
シモンは、
「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」 と答えた。
イエスは、「そのとおりだ」と言われた。
そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。
「この人を見ないか。
わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、
この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。
あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、
この人はわたしが入って来てから、 わたしの足に接吻してやまなかった。
あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、
この人は足に香油を塗ってくれた。
だから、言っておく。
この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。
赦されることの少ない者は、 愛することも少ない。」
そして、イエスは女に、 「あなたの罪は赦された」 と言われた。
同席の人たちは、 「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」 と考え始めた。
イエスは女に、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/28/b7f2bdd6cb19678abcb22c4a2da5b2e7.jpg)
『あなたの罪は赦された』 Heinrich Hofmann Georg Hahn作品
「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」
と言われた。』
ルカ福音書 7章36-50節
今日の福音では、
三人の方
が書かれています。
ファリサイ派の人・シモン
『豪華な食事』を準備して、イエスを迎えることのできるお金持ちでしょうか?
『律法』を守ることに熱心で、自分には『罪』がないと思い、
『赦し』は必要ないと考えているようです。
『罪深い女』に触れるイエス様を、心の中で、
”律法に反する! そんなことはありえないでしょう!” と批判しています。
『罪深い女』の、 事情や、寂しさ、等々を、 理解しようとはしませんでしょう。
『人間的正義』で人を判断し、罪人に『許しを受ける資格』がないと考える人でした。
罪深い女
誰にも相手にしてもらえないで『寂しい日々』を送っていたのでしょう。
イエス様こそ『私の理解者』になってくださることでしょうと、
『感謝』の気持ち、と 『許し』を願いたい気持ち、でいっぱいだったのでしょう。
イエスの話を聞きながら、イエス様の『罪の赦し』 を実感していたのでしょう。
許しへの『感謝』の気持ちで、涙でイエスの足を洗い、イエスの足に接吻をして、
『高価な香油』 をイエス様の足に塗りました。
イエス様
罪人の女の『寂しさ』も『気持ち』も理解して、『許し』を与えました。
『高価な香油』を惜しげもなくイエスの足に塗る女を見て、
女の『回心』の大きさを知り、 彼女のために喜びました。
『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』
と・・・『許しの言葉』をかけました。
私は、三者の内の、誰でしょう?
イエス様のようでありたい。 でもファリサイ人であり罪人の女です。
大切なことは・・・神様に心を開いて、神様を信じることです。
『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』
と、イエス様に言っていただくことですね。
『イエスの御言葉』
『はっきり言っておく、
わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、
私にしてくれたことである。』 マタイ福音書25-40
一番身近な人に、
足を洗う水を差し上げ、 接吻の挨拶をし、 頭に香油を塗って差し上げ、
ながら・・・思いやりを持ちながら、過ごしてまいりましょう。
『今日の祈願』
『救いの源である神よ、 わたしたちを強めてください。
変わることのないあなたの愛のうちにとどまり、
豊かな実りをもたらすことができますように。』
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
皆様の『生きがい』は何ですか?
生きがいで、毎日の生活が輝いていたいものですね。 お元気で!
戻ってきた日常。
常日頃の・・・ 『我が机の上』
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/c5/2b16e59985798c042a201bc6cc665627.jpg)
聖書とノートとペンとノートパソコンと大型モニター
なんと有り難く、嬉しいことか。
明日から『聖書通読会・聖書100週間クラス』の再開です。
1985年9月3日から、 35年間、毎週金曜日、 途切れることなく続いた
『聖書100週間』と共にある、 私の『日常』でした。
『神の御言葉』
ところが、
コロナ禍で、 3月~9月まで6ヶ月半の間、 『日常』が途切れました。
私にとっては、 『生きがい』をもがれた、 『悪夢』の6ヶ月半でした。
『生きがい』とは何だろう?
「生きることに価値や意味をもたらす源泉や対象としての事物」
又
「その源泉や対象が存在することにより自らの生に価値や意味があると感じられる感情」
心理学者・井上勝也の『言葉』より
現在は、若さを失った高齢者の多くが、
自己否定感に苛まれる事なく日々を過ごしている。
高齢者が穏やかに『老い』を受容できるのは、
それぞれの持つ『生き甲斐』が、
老いや喪失感への拮抗因子として働いていると考えられている。
心理学的『老人学』より
なるほどね。 こんな風にも書かれています。
高齢者の『生き甲斐』の特徴のひとつに
「失われやすさ」がある。
例えば、
孫の成長が生き甲斐だった場合、
孫が大人に近づくにつれて自分の役割は減少していく。
初老の頃に始めたスポーツが生き甲斐となっても、
老いとともに継続が難しくなる。
高齢者にとって、『生き甲斐』は常に『喪失』と隣り合わせである。
年を重ねて、年齢に卑屈になることなく、毅然たる老人になりたいものです。
聖書を読みながら・・・
健全な精神で、強い心で、信心深く、ありたいものです。
生きがいを追求しながら・・・
日々新たな始まりに向かって、確実な日々を重ねたいものです。
明日から『日常』がもどり、 『喪失感』も消えて、 『聖書三昧』の始まりです。
明日はエゼキエル書13章~24章です。 感謝!感謝!
そして。
今日は9月17日。年間第二十四木曜日。
『今日の入祭唱』
『わたしは主を愛する。
主は嘆き祈る声を聞き、私に耳を傾けてくださる。
生涯、わたしは主を呼ぼう。』
詩編 116章1&2節
『今日の福音 イエスの御言葉』
『そのとき、 あるファリサイ派の人が、 一緒に食事をしてほしいと願ったので、
イエスはその家に入って食事の席に着かれた。
この町に一人の罪深い女がいた。
イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/88/fccb433effbc6a232ea54452ebe5703a.jpg)
『シモンの家での食事 』 Frans Francken the Younger作品
香油の入った石膏の壺を持って来て、
後ろからイエスの足もとに近寄り、
泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、
イエスの足に接吻して香油を塗った。
イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、
「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、
どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」 と思った。
そこで、イエスがその人に向かって、
「シモン、あなたに言いたいことがある」 と言われると、シ
モンは、 「先生、おっしゃってください」 と言った。
イエスはお話しになった。
「ある金貸しから、 二人の人が金を借りていた。
一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。
二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
シモンは、
「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」 と答えた。
イエスは、「そのとおりだ」と言われた。
そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。
「この人を見ないか。
わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、
この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。
あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、
この人はわたしが入って来てから、 わたしの足に接吻してやまなかった。
あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、
この人は足に香油を塗ってくれた。
だから、言っておく。
この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。
赦されることの少ない者は、 愛することも少ない。」
そして、イエスは女に、 「あなたの罪は赦された」 と言われた。
同席の人たちは、 「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」 と考え始めた。
イエスは女に、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/28/b7f2bdd6cb19678abcb22c4a2da5b2e7.jpg)
『あなたの罪は赦された』 Heinrich Hofmann Georg Hahn作品
「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」
と言われた。』
ルカ福音書 7章36-50節
今日の福音では、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/clover.gif)
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『豪華な食事』を準備して、イエスを迎えることのできるお金持ちでしょうか?
『律法』を守ることに熱心で、自分には『罪』がないと思い、
『赦し』は必要ないと考えているようです。
『罪深い女』に触れるイエス様を、心の中で、
”律法に反する! そんなことはありえないでしょう!” と批判しています。
『罪深い女』の、 事情や、寂しさ、等々を、 理解しようとはしませんでしょう。
『人間的正義』で人を判断し、罪人に『許しを受ける資格』がないと考える人でした。
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誰にも相手にしてもらえないで『寂しい日々』を送っていたのでしょう。
イエス様こそ『私の理解者』になってくださることでしょうと、
『感謝』の気持ち、と 『許し』を願いたい気持ち、でいっぱいだったのでしょう。
イエスの話を聞きながら、イエス様の『罪の赦し』 を実感していたのでしょう。
許しへの『感謝』の気持ちで、涙でイエスの足を洗い、イエスの足に接吻をして、
『高価な香油』 をイエス様の足に塗りました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/clover.gif)
罪人の女の『寂しさ』も『気持ち』も理解して、『許し』を与えました。
『高価な香油』を惜しげもなくイエスの足に塗る女を見て、
女の『回心』の大きさを知り、 彼女のために喜びました。
『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』
と・・・『許しの言葉』をかけました。
私は、三者の内の、誰でしょう?
イエス様のようでありたい。 でもファリサイ人であり罪人の女です。
大切なことは・・・神様に心を開いて、神様を信じることです。
『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』
と、イエス様に言っていただくことですね。
『イエスの御言葉』
『はっきり言っておく、
わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、
私にしてくれたことである。』 マタイ福音書25-40
一番身近な人に、
足を洗う水を差し上げ、 接吻の挨拶をし、 頭に香油を塗って差し上げ、
ながら・・・思いやりを持ちながら、過ごしてまいりましょう。
『今日の祈願』
『救いの源である神よ、 わたしたちを強めてください。
変わることのないあなたの愛のうちにとどまり、
豊かな実りをもたらすことができますように。』
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
皆様の『生きがい』は何ですか?
生きがいで、毎日の生活が輝いていたいものですね。 お元気で!
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