英語がとってもお上手で、現地の人とコミュニケーションをうまく取れるだけでなく、ボランティアとして、様々のお手伝いをしていた、素敵なkさんが帰国されることになった。私は、日頃から、決して大学時代とか、英語を専門的に勉強されていたわけではなかったとお聞きした彼女が、どうして、あんなにいきいきと英語圏で生活しているのか、非常に興味があった。そこで、送別会にと時間を作ってもらい、親しい友人と3人で、その友人が作ってくれた、ランチをご一緒した。
面白いもので、お話を聞いていて、ご当人はあまり、何故か・・・を意識していない。これが秘訣です、と自信のある秘話もなければ、ここまで隠れた努力をしましたという、苦労話もなかった。しかし、一連の話を聞いていた、友人が、そっか、いじけないのね、と一言。私も、そっか。。。。。と。納得した。
つまり、人間は会話の中で、一人だけその話題に入れなかったりすると、その場所に居られない違和感を感じたりする。これは万人が経験することだと想う。そのなかで、私などは、しばしば、いじけ虫が登場し・・・どうせ。。。。私は疎外されている。。。。ここに、私の居場所は無い。。。と思い、もう二度と同じ思いをしないようにと、行動に規制をかける。一種の自己防衛本能だろう。もう二度と。。固く誓う。
英語の会話の中で、自分一人が分らないときがこれにあたる。特に米人2人以上が話し始めると、とてもそのスピードに付いていけないから、尚更いじけ虫は大きくなり、異文化での難しさにその根拠を求め、同じ間違いを犯さないように注意する。つまり、米人と話をすることを避けようとする。
彼女は、そんなときは、自分が透明になっていく感じがするという。周りの人が、自分を意識していないということは、無意識に自分の存在が認められているということであり、許された自分を感じるのだと。だから。。。。あとで、ゆっくり聞いてもいいし、ことさらその内容が分らなくてもいいと。
友人曰く、いじけないのね。
そっか、私にはいじけ虫の巣が何個もあるようだ。言葉の問題だけでなく、これは人格的な問題なのかもしれない。ちょっと、見つめてみよう。自分のなかのいじけ虫。