新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

11月11日 その3 「イベント」というカタカナ語

2022-11-11 16:19:57 | コラム
あらためて“event”を調べてみた:

加瀬英明氏に刺激されて「イベント」というカタカナ語を追及してみた。結論から先に言ってしまえば「矢張り、我が国の英語教育で単語を覚えさせることに重点を置いていることの負の成果だったと断定しても、それほど誤りではない」ようだった。

そこで気が付いたのだが、これまでに「このイベントいう言葉はおかしいのでは」と考えたこともなく、思い出してみれば実際に“event”なる単語を業務上でも日常会話でも使った記憶もないし、誰かnative speakerが使ったのを聞いた気もしなかった。要するに、加瀬氏が指摘されたように重たい言葉だったようなのだ。

それにも拘わらず、「催し物」を意味するカタカナ語として定着してしまったようだった。私が知る限りの使い方では「~の場合」の意味で“in the event of blackout”即ち「停電の場合に」のように使われていた例があった。それほど使いにくい単語だったと思う。それが、我が国では、いともアッサリと「催し物」の意味になっていた。

これは必ずしも誤用ではなくジーニアス英和には「(重要な)出来事、(注目すべき)(大)事件;(年中の)行事、催し」とあるのだから。でも、「催し」の順位は低いようだ。

それではと、Oxfordを調べてみた。“a thing that happens especially ~ important“と先ず出てきて、その例文に“The election was the main event of 2004.”が出ていた。何と、私がつい先刻指摘したばかりの“main“の例文にもなっていたのだ。

次に”a planned public or social occasion“とあり、3番目に“one of the races or competitions in a sports program“が出ていた。「イベント」=催し物とは何か何処かが違うような気がする。だが、「催物」という熟語を捨てて「イベント」をテレビや新聞が勝手に置き換えたのだから、私が介入する余地はないと思う。何れにせよ「辞書くらい引いてから造語しろよ」と言いたくなった。


11月11日 その2 岸田文雄内閣総理大臣の決断力の問題では

2022-11-11 15:03:02 | コラム
葉梨康弘法務大臣を事実上更迭:

13時前にジムから帰ってきたら、このニュースだった。私は葉梨法相の舌禍(なのだろうと思う)のニュースを見たときに「この方は潔く自ら辞任しないでいて、岸田総理も自派閥の大臣を庇い立てすれば、葉梨康弘氏は野垂れ死になるだろう」と読んでいた。「過去においても閣僚の舌禍事件が結果として辞任か野党とマスコミ連合の攻勢にあって更迭に追い込まれた例がどれほどあったか」という問題だ。

私は一に懸かって、岸田さんには望むのは無理かも知れない、「決断力の問題であろう」と見ていた。TBSの報道では「間もなく外遊に出られるので、その前に決断されたのだろう」となっていた。だが、それとても、私が常に言っている“Better late than never.”という程度の決断ではないのか。

葉梨康弘氏の経歴をWikipediaに訊けば「教育大附属駒場高校から東京大学法学部のご出身で警察庁に入られた」とあった。画に描いたような秀才のコースである。だが、敢えて言うが「秀才であっても、処世術には賢明ではなかった」と感じていた。

矢張り今回も「岸田さん、頼みますよ。貴方はお国を背負っておられるのですから」と言って終わる。

カタカナ語の問題点を挙げておけば

2022-11-11 09:09:58 | コラム
本当の英語の意味を知らずに濫用すること:

本日の渡部亮次郎氏主宰のメルマガ「頂門の一針」の冒頭に、加瀬英明氏が“牙を示した安倍元首相の国葬”でカタカナ語濫用を戒めておられたので、加瀬氏の本来の主張とは異なることかも知れないが、その辺りを引用してみようと思う。その理由(ワケ)は「私以外にも、加瀬氏のような立派な有識者の方がカタカナ語を批判しておられたのが、有り難かったし、『我が意を得たり』の感があったから」である。私が言うのとは重みが違うと考えている。

>引用開始
安倍晋三元首相の国葬が、菊の季節の9月に催された。盛大なものだった。私は安倍元首相の国葬は、今日、日本が占めている国際的地位にふさわしいイベントだったと、高く評価した。安倍元首相の力量に負うものである。日本語のなかで「イベント」という外来語が乱用されるようになっているが、「イベント」は本来の英語では国王の戴冠式、国葬、建国記念日、伝統的な祭のように、起るべくして起る催事をいうのであって、金儲けのために行われる音楽会や、アパレル、食品のフェアのような催事についてはいわない。商業的なイベントは、金儲けのための罠(わな)だ。
<引用終わる

言いたいことは、私はこれまでに「カタカナ語を使いたがるのは勝手だが、使う前にキチンと英和辞典か英英辞典を引いて意味を正しく把握してからにせよ」と繰り返し主張してきた。「ただ単に単語帳かカードによる知識的に和訳された意味というか表現だけ覚えて、文章としての流れの中でどのように使われているかを知らずにカタカナ語化するべきではない」のである。

その意味を取り違えている例を挙げればキリがないが、幾つか挙げておこう。「メイン」=mainは必ず名詞の前に「主な」という意味で使うのであり「当店では輸入物をメインにしております」というような名詞としての遣い方は英語本来の意味を知らずに誤用した例であると指摘してあった。正しい使い方はmain dishやmain streetのようになるのだ。

他にも一例を挙げておけば「メリット」も誤用である。辞書には「カタカナ語は英語にすればadvantageの意味で使われている」とある。

念の為に、Oxfordには“the quality of being good and of deserving praise, reward or admiration”とあり、次に”good feature that deserves praise, reward or admiration”とある。広辞苑には「価値、利点、長所、功績」と出ている。ジーニアス英和にも「長所、利点、(賞賛に値する)美点」と出ている。これらがどうして広辞苑に出ているような意味のカタカナ語になったのだろうか。

繰り返して言って置くが、「カタカナ語は仮令英語の本当の意味からかけ離れている表現になっていても、日本語の一部になってしまったのだから、敢えて否定もしないし、使いたければご自由に」と指摘してあった。だが、真っ向から否定するし、改善した方が宜しいですよと主張することは「単語を覚えよ」とする我が国の英語教育の在り方だ。しかも、これあらゆる段階での英語の試験の重要な要素になっているようだから、何度言っても結果は同じだろうと諦めている。