新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

この事だけはどうしても言っておこう

2022-11-25 14:18:59 | コラム
テレビと新聞の偏ったサッカーの報道を戒める:

23日に我が代表がW杯サッカーの予選リーグの第1戦で大方の予想を覆してドイツに勝ったのは大変良いことだった。テレビも新聞もこれでもかというような大騒ぎである。この事には何ら文句を付ける気はない。

だが、冷静なる評論家の当方に言わせれば、同点にした堂安と決勝点を蹴り込んだ浅野だけを「歴史に残る」などと言って褒めちぎるのは偏向した扱い大変に宜しくないと断じざるを得ない。

私はこれまでに何度かマスコミに言い聞かせてきたことがあった。それは「サッカーという競技ではごく例外的な場合を除いては、シュートをゴール決めた選手だけが偉いのではなく(乃至はその者だけを特に褒めるのではなく)、シュートを決められるように組み立てた周りの者たちの功績でもあるのを忘れるな」ということだ。

もっと厳しいことをいえば「得点になるシュートをした者は、そもそもそういう役割を与えられて前線にお位置しているのだから、彼または彼女はその当然すべき仕事をしただけに過ぎないので、特別に賞賛するのはサッカーという競技の本質を認識していない門外漢の所業である」となるのだ。

これだけの説明では解って貰えないかと思うので、ズバリといえば「あの場面で、ディフェンダーと競り合いながら、世界最高の名手と呼んでも誤りではないドイツのGKノイヤーが手も足も出せないシュートを決めた浅野拓磨だけを英雄扱いするのは間違いである」ということだ。

私は浅野も立派だったと認めているが、それ以上に凄かったのは板倉があの(FKからだったか)浅野が空いていて走り出そうとするのを見て、浅野が扱いやすいようなバックスピンが効いたパスを「ドンピシャリ」(昨今では「ピンポイント」なるカタカナ語が濫用されているが)で浅野が走り込んだ場所に落ちるようにした正確無比のキック力をこそ褒め称えるべきだと思うのだ。

後で何度が録画を見たが、板倉のキックは浅野が走っていく先に急に曲がり落ちるような弧を描いていた。あれは、板倉が意図的にバックスピンをかけるように蹴ったのだと解釈した。こんな事は容易いことで、現代のサッカー選手たちなら誰でもできる技だ。

即ち、前線にフィードする者は、時と場合によってパスの種類を蹴り分けていることだ。だからと言って、常にあの板倉のキックのように正確に、相手のディフェンスの裏に落ちて止まるようなパスは、生涯に2~3度でも蹴れたら上等だと思うのだ。あれだけピッタリと浅野が走るスピードにタイミングが合ったのは寧ろ奇跡的かに見えた。

もう一度いうが、浅野の得点ばかりを褒めそやして、板倉の正確無比のフィードを褒め称えて上げなければ片手落ちになってしまうのではないか。私はあの決勝点は板倉と浅野の合作として、日本サッカー界の歴史に残っても良いと評価している。

終わりに少し手前味噌を言わせて貰えば、私は40歳を過ぎてから加入した藤沢市の「四十雀クラブ」(40歳以上の者が集まってサッカーを楽しむ組織)では、専らゲームを組み立てる役に専念して、ボールを持つや全体を瞬時に見渡して「空いている人」や「そこにパスを出せば得点のチャンスになる人」にパスを供給するのを楽しんでいた。即ち、視野を広くして、その人が扱いやすいように何通りかの種類のパスを蹴り分けていた。この役割にはシュートを決めるのとは違った快感がある。