新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

11月12日 その2 私が本気で心配していること

2022-11-12 15:40:16 | コラム
案じているのは「国」のことである:

私は最早岸田内閣の自滅や自民党の崩壊などを案じるのを通り越して、我が国がどうなってしまうかを心配せねばならない時期が迫っているのではないかと、独り密かに気に病んでいる。確かに、山際大志郎氏に続いて葉梨康弘氏も辞任に追い込まれたし、その後に続くのかどうかも不明だが、寺田稔総務大臣、秋葉賢也復興担当大臣も野党とマスコミ連合軍の攻撃の絶好の標的になっている。

事態がそこまでに至れば、私の独特の表現では「岸田総理が自分を信じて決断力を発揮しないことには、閣僚ではなく内閣そのものの『野垂れ死に』の危機が迫ってこないとは言えない気がする」のだ。岸田総理の決断力不足は再三指摘してきたが、物事の優先順位のつけ方や、重要度というか事の軽重の判断が遅いのは、どうしても気になってしまう。

例えば防衛費では「GDPの2%への増額を5年以内に」などと財務省の健全財政論に振り回されているように見えるのでは、我が国を取りまく周辺の諸国の軍事力強化や、頻繁に実行される飛翔体の実験を見る時に、甚だ心許ない思いがするのだ。

財務省は国家予算の番人であるから国防費の増加を、両手を挙げて賛成しないのが彼らの職務であり仕事だ。それに総理大臣が惑わされていてどうするのかと見ていたら、産経新聞の「産経抄」氏に下記のように突っ込まれてしまった。以下がその引用である。

「日本は目を覚ます必要がある。目をこすりながら徐々にではなく、即座にベッドから飛び起きなければならない」。トランプ米前政権で国防戦略をまとめたコルビー(筆者注:Elbridge Colby)元国防次官補代理が、雑誌『ウェッジ』11月号への寄稿文で訴えていた。日本の防衛は嘆かわしいほど不十分だというのである。(以下略)」

となっていた。コルビー氏は「この儘の防衛力が弱体の儘では日米同盟の崩壊の危機」まで云々していたのだ。この新聞が出た時刻には、岸田総理はカンボジアに到着されていたのだろうから、ご存じではないかも知れない。私は前から「アメリカが本当に我が国を信ずるに足る同盟国と認識してくれているのだろうか」と何となく不安だった。現に、私の知り合いの知識階級の人たちは、誰一人として安保条約の存在を知らなかった。

勿論、ASEANも大事だろうし、数カ国の指導者との首脳会談の場も設営されているようだから、外遊も必要だろう事くらいは解る。だが、岸田総理にとっての火事は足下で煙を上げ始めているのではないのか。葉梨康弘氏の実質的更迭の一大決断にしても「後手、後手だった」との野党からの非難の声が上がり、マスコミも騒がしいのだ。マスコミ報道では総理の帰国は19日だというし、既に国会の会期延長論が聞こえてきている。

私は何年前のことだったか、岸田政調会長の「30万円給付案」が滑ったときで、岸田氏の政治生命が断たれたのではないか疑っていた。それが、あの華々しい二階幹事長引き下ろし説を引っ提げて再登場されたときには「生まれ変わった岸田文雄氏が登場されたのか」と思わせられていた。だが、実際に総理大臣の座を射止められてから後の統率力を見ると、「短期間では、人は大化けはしない」と立証されたようにしか思えない。

だが、私は一部の週刊誌が報じたように12月の「10増10減」前の解散総選挙よりも、一刻も早く帰国されて、全力を挙げて決断力を発揮されて、岸田内閣だけの危機に終わりそうではない事態に、真っ向から取り組んで頂きたいのだ。私は既に述べてあった通りで「岸田文雄内閣総理大臣とその内閣を消極的に支持する姿勢を変える意思はない」のだ。政局だの政変などに振り回されていて良い時期ではないのだと見ているから。

自ら望んで総理大臣になったのだから、責任を立派に果たして貰いたいのだ。私は少なくとも過半数の国民は泉健太総理大臣の誕生を希望しているとは思っていないと信じている。岸田文雄内閣総理大臣には、今度こそは「先手、先手」で決断力を発揮して事態に対処して貰いたいのだ。


無名の人に言わせれば

2022-11-12 08:38:35 | コラム
そごう西武をアメリカのファンドに売却:

こんな情けなく、且つ間抜けなニュースを21世紀の今日に聞かされて、心の底から嘆き・怒っている「セブン&アイホールディングスは間抜けな田舎者だったな」と。彼らは「無名の人」こと私が、今を去ること20数年前に「百貨店のような大規模小売業には将来はない」と何度か発表していたし、2000年台に入ってからは三越の品揃えの貧弱さを貶したところ、その三越と合併していた伊勢丹のOBの方も三越の店舗を視察されて「こんな所と合併したとは」と慨嘆されたのを承知していた。

私は1951年から54年末まで三越・銀座支店で実習生(学生アルバイトのこと)をやっていたので、百貨店の商いの仕方は多少心得ていた。その頃は未だ「今日は帝劇、明日は三越」の時代の営業力は十分に発揮されていた。だが、時移り人代わり、専門店や欧米の諸国のブランド品のみを扱う店が銀座等の目抜きの商店街に軒を連ねるようになってきた。同時にアメリカの影響を受けてスーパーマーケットやコンビニエンスストアも進出してきたし、廉価販売の大規模小売店も巷に溢れてきた。

私はこれまでに何度か、鵠沼海岸に住んでおられた、昔の言葉にすれば上流階級、社会主義者風に言えば「ブルジョア」の方々は「台所の束子の果てまで三越で買わないと気が済まない」のだったことを書いてきた。だが、時代が変われば人々は最高級品を定価で販売する営業形式の百貨店を敬遠して、安値で販売する小売店に惹かれていくのは明らかだった。言い方を変えれば「中身は同じで、包装紙だけが高級な店で買う必要はない」と見切られていくということ。

私が今日まで何度も何度も某商社がお台場の東京ビッグサイトで、同社が扱う輸入品と取引するメーカー、問屋、小売店を集めて開催する大廉売会がどれほどの人を集めて大繁盛しているかを取り上げてきた。消費者は賢明になってきているのだ。流通業界の販売形態はドンドン変化してきたのだった。いや、商流は短絡化してきたのだった。

事はそれだけに止まらず、専門店の販売員の方が商品知識も豊富であり、品物についての説明も解りやすいという流れになって行ったのだった。百貨店での経験があった私には「これでは必ず、そう遠からぬ将来、百貨店は衰退する」と読めたので「百貨店のような大規模小売業の形態は長持ちしないだろう」と主張するようになったのだった。だが、マスコミなどは未だに百貨店を支持するような書き方をしている。

それは察するに「スポンサー企業を無下に扱えない」という意味だと解釈している。だが、こういう姿勢は罪なき消費者を欺くことになりかねないし、セブン&アホールディングスのような純朴な企業に、先行きの見通しを誤らせたのではとも思っている。彼らはイトーヨーカドーからセブンイレブン(の買収)にまで業容を拡大していったところまでは良かったが、百貨店を加えれば「なおホールディングスに未来がある」と見誤ったのだろう。

「20数年前に無名の人だった私が強調した百貨店衰退論という説を見ていたら、百貨店業にまで手を出すような事はなかっただろう」などとは思わないが、「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」を知らなかったのだろう。消えゆく百貨店業が灯す灯りが明るく輝いているように見えたのではないのかな。同時に、時代の流れの恐ろしさを読み誤ったのだろうと思う。私自身のことをいえば、もう何十年も百貨店では「何処で買っても値段が同じ」の商品しか買っていない。

それに加えて、忘れてはならないことは「多くの人が海外に出掛けて、特に円高を活かしてブランド品でも何でも経済的な値段で買ってきてしまうようになっていた」点である。在職中の私はこのメリット(誤ったカタカナ語を使っている)を十二分に活用していた。

なお、そごう西武を買収したアメリカの「フォートレス・インベストメント・グループ」はソフトバンク傘下のファンドである。また、私が「無名の人」と名乗っているのは、嘗てある出版社のデスクに私を「無名だ」と言われたことを根に持っているだけのこと。正直に言えば、自分が有名人だなどと思ったことはないが、真っ向から「無名」と言われたのは決して愉快ではなかったのだ。