コンビニエンスストアでは「アバター」が接客:
“Avatar”という映画が出たのは2009年だったそうだ。当方には76歳で第1回目の心筋梗塞発症の3年後のことだった。この頃は既に人混みの中に出ていくことを避けていたこともあって、映画館などは当然のように敬して遠ざけていた。従って、そう言えば、そんな題名のアメリカの映画があったかなという程度の認識だった。
所がである、近頃はしきりにテレビ等に「アバター」(=「分身」)なる言葉と画像が登場するようになった。多分、CGかAIの類いだろうと思って気にもしなかったし、相も変わらぬテレビ局の軽佻浮薄な騒ぎ立てか辺りかなと考えていた。だが、「アバター」はどうやら英語の単語にすれば“avatar”のことかな、くらいの見当はつけてあった。言ってみれば、ICT化が進んだ時代の流れの中に登場した人工知能かなとも考えていた。
ところが、昨日から数局で三菱系のグリーン・ローソンが店頭に設置してスクリーンにアバターを登場させて接客に活用を開始したと報じ始め、実際に分身が質問に答える場面も見せて貰えた。更に同社の竹増貞信社長が「今後はコンビニエンスストアの経営上には人手不足解消の手法として活用されていくだろう」と述べていた。尤もだと思って承った。
この竹増社長はつい先頃「コンビニエンスストアの経営では人件費のみならず電力代や設備投資の負担が大きい上に、何とかpayなどでの代金決裁が増えれば増えるほど、手数料の負担が重くなるが大変」との見解を述べておられたばかりだ。それかあらぬか、もう1年も前になるだろうか、セブンイレブンのレジでは店員が代金を受領せずに言わば自動支払機を設置して、係員が顧客に支払い方を指図するだけに変わっていた。
私はコンビニエンスストアの熱烈なユーザーではないので、詳しいことは言えないが、この近所のセブンイレブンにおける係員の接客の姿勢は余り丁寧ではなく、寧ろ不愉快にすら感じていた。それは、この種の支払いに慣れていない客と見ると命令口調になってしまうからだ。だが、時代の流れとしてこの方向に進まざるを得ないかと理解はしているがね。
もう一つ気に入らない事柄を挙げておくと「何故、アバターと呼称するのか」なのである。即ち、得意の「カタカナ語排斥論」なのだ。映画を知らなかった当方が時代遅れであり、ICT化の進歩発展についていけていないことは認めるが「何故、係員の分身が応答します」というように(超後期高齢者向けにも)カタカナ語ではない表現が使えないのか」と言いたいのだ。
新聞だったか週刊誌だったか失念したが、「このような自動支払機の類いを導入した先で、不慣れなお客様を誘導する仕事を与えられた人が、人間無視のような職務に嫌気がさして退職した」というのがあった。以前にも指摘したことで、多くの大病院では自動支払機導入後には、常に介添え役の女性が配置されていた。換言すれば、「時代は高齢者に対して優しくなくなりつつある」のだ。そこに、カタカナ語で追い打ちをかけようというのだ。
英語をある程度以上知っているつもりの私は“avatar”の知識は不十分なので、先ずはジーニアス英和を引いた。これは普通名詞のようで「(ある特性やタイプの)具現化、具現した人」があり「(コンピュータ)アバター(チャットルームを利用したりゲームをする人、物、動物を示すアイコン)とあって、良く理解できなかった。3番目には「ヒンドゥー教、この世に現れた神の化身、権化」とあった。
Oxfordには、いきなり“(Hinduism and Buddhism) a god appearing in a physical form”が出てきた。何れにせよ、何でもカタカナ語にして表したくなるのは少し解るが、その前に「本来の意味は此れ此れ然々」と解説しておいてほしいものだ。「何だ。結局はカタカナ語批判か」と採られたのならば、それでも結構である。