ビジネスの世界では「伝聞を基に論ずるな」と厳しく言われた:
昨日は少しばかり「伝聞」を論じたので、私が経験したアメリカのビジネスの世界では伝聞がどのように看做されているかを論じてみよう。
私は簡単に言えば“second-hand information”を指しているのだと認識している。彼らは上司や部内での報告やリポートの中に伝聞を用いるか、伝聞を根拠にする事」を解りやすく言えば「禁じている」としても過言ではないほど嫌っている。1975年にW社ジャパンの前身に転進した際に、ワシントン大学のMBAである日系人のJ氏に厳しく教え込まれた事は「君自身の意見や見解でないことを報告書に盛り込むな」だった。即ち、「伝聞は駄目よ」という事。
では、英語の表現で伝聞に相当するのはどのような表現になるかを列記してみる。これを読まれた我が国の学校教育で英語覚えられた方には「これじゃー、何にも言えなくなってしまう」と驚かれるだろうと思う。J氏の教えとは、
「“It is said that ~.”、“I heard that ~.” “They say that ~.” “I was told that ~.” “It was reported that ~.”等々の形は伝聞の表現であるとして、如何なる場合にも避けねばならない。」
だったのである。
そして、他人の言を引用するならば「誰それさんがそのように言っていたので敢えて引用するが、これについて自分はこう思うと注釈を付けるべしと、自分の見解を付記せよ」であって、他人の意見である事を明らかにせよとの指摘だった。「それでは、自分の意見である事を明快にするには何と言えば良いのか」と尋ねると、「所謂“I attitude”にして、必ず“I”から始めれば、誰が読んでも聞いても自分の意見の表明であると解る」と教えられた。私の文章が圧倒的に「私」で始まる例が多いのは、その影響が未だに残っているからだと思っている。
ここで引き続き英語の話にすると、second-handに対応するというか、伝聞でない場合の情報を“firsthand information”と言っている。要するに、「彼らが聞きたいというか報告を受けたいのはfirsthand informationなのだ」という事である。この辺りにアメリカのビジネスの世界における個人の主体性が尊重されるという点が、非常に良く現れていると思っている。換言すれば「個人の主張のぶつかり合い」の世界だとも言えると思う。
私が毎度「生涯最高の上司」として引用している副社長兼事業部長との付き合い方にかなり馴れた頃の事だった。出張してきた彼との最初のブレックファストミーテイングの中で、迂闊にも伝聞を報告してしまった。彼は穏やかに(?)血相を変えて「俺は伝聞を聞きに8,000 kmを飛んできたのではない。君の意見を言え」とやられてしまった。冷や汗だった。ここで確認しておくべき事は「自分の意見が正しいとか間違っていないかどうかは問題ではなく、自分の信念から発したものでなければいけない」との点である。
じこで、もう一度「伝聞」の定義に戻って見よう。私はそうである事をsecond-hand informationといって表現したが、“hearsay”という単語もある。これをOxfordで見ると“things that you have heard from another person but do not (definitely) know to be true”とあって、誠に良く「伝聞」を説明してあると思った次第。こういうことを言っていると、アメリカ人のビジネスの世界では信用されないのだと認識して頂きたい。
最後に、私はどうしても我が国の学校教育における英語を批判したくなる。上記のJ氏が駄目だと言われた所謂 It is thatのこうぶんのような表現はごく普通に教えられている。故にこれで通じると思っている人が多くても不思議ではない。だが、それでは上記のOxfordのhearsayの説明のように不確実な事になってしまうのだ。英語教師の方々には承知しておいて欲しい事柄だ。
昨日は少しばかり「伝聞」を論じたので、私が経験したアメリカのビジネスの世界では伝聞がどのように看做されているかを論じてみよう。
私は簡単に言えば“second-hand information”を指しているのだと認識している。彼らは上司や部内での報告やリポートの中に伝聞を用いるか、伝聞を根拠にする事」を解りやすく言えば「禁じている」としても過言ではないほど嫌っている。1975年にW社ジャパンの前身に転進した際に、ワシントン大学のMBAである日系人のJ氏に厳しく教え込まれた事は「君自身の意見や見解でないことを報告書に盛り込むな」だった。即ち、「伝聞は駄目よ」という事。
では、英語の表現で伝聞に相当するのはどのような表現になるかを列記してみる。これを読まれた我が国の学校教育で英語覚えられた方には「これじゃー、何にも言えなくなってしまう」と驚かれるだろうと思う。J氏の教えとは、
「“It is said that ~.”、“I heard that ~.” “They say that ~.” “I was told that ~.” “It was reported that ~.”等々の形は伝聞の表現であるとして、如何なる場合にも避けねばならない。」
だったのである。
そして、他人の言を引用するならば「誰それさんがそのように言っていたので敢えて引用するが、これについて自分はこう思うと注釈を付けるべしと、自分の見解を付記せよ」であって、他人の意見である事を明らかにせよとの指摘だった。「それでは、自分の意見である事を明快にするには何と言えば良いのか」と尋ねると、「所謂“I attitude”にして、必ず“I”から始めれば、誰が読んでも聞いても自分の意見の表明であると解る」と教えられた。私の文章が圧倒的に「私」で始まる例が多いのは、その影響が未だに残っているからだと思っている。
ここで引き続き英語の話にすると、second-handに対応するというか、伝聞でない場合の情報を“firsthand information”と言っている。要するに、「彼らが聞きたいというか報告を受けたいのはfirsthand informationなのだ」という事である。この辺りにアメリカのビジネスの世界における個人の主体性が尊重されるという点が、非常に良く現れていると思っている。換言すれば「個人の主張のぶつかり合い」の世界だとも言えると思う。
私が毎度「生涯最高の上司」として引用している副社長兼事業部長との付き合い方にかなり馴れた頃の事だった。出張してきた彼との最初のブレックファストミーテイングの中で、迂闊にも伝聞を報告してしまった。彼は穏やかに(?)血相を変えて「俺は伝聞を聞きに8,000 kmを飛んできたのではない。君の意見を言え」とやられてしまった。冷や汗だった。ここで確認しておくべき事は「自分の意見が正しいとか間違っていないかどうかは問題ではなく、自分の信念から発したものでなければいけない」との点である。
じこで、もう一度「伝聞」の定義に戻って見よう。私はそうである事をsecond-hand informationといって表現したが、“hearsay”という単語もある。これをOxfordで見ると“things that you have heard from another person but do not (definitely) know to be true”とあって、誠に良く「伝聞」を説明してあると思った次第。こういうことを言っていると、アメリカ人のビジネスの世界では信用されないのだと認識して頂きたい。
最後に、私はどうしても我が国の学校教育における英語を批判したくなる。上記のJ氏が駄目だと言われた所謂 It is thatのこうぶんのような表現はごく普通に教えられている。故にこれで通じると思っている人が多くても不思議ではない。だが、それでは上記のOxfordのhearsayの説明のように不確実な事になってしまうのだ。英語教師の方々には承知しておいて欲しい事柄だ。
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