「運」と「縁:
19日に篠宮良幸氏が主催する水曜会の最終回が開催された。即ち、篠宮氏が長年続けてきたこの会合が終わりを告げたのだ。彼が会の継続を諦めた最大の理由は、彼が近年何度か骨折となる負傷をした為に万全な体調の維持が難しくなったことと私は解釈している。それに彼は既に85歳である。昨日は最終回に私も参加して会長・篠宮氏のご要望に応えて拙い惜別の辞を述べてきた。因みに、彼と私は同じ学部の同じ専攻科だったし、サッカー部の仲間でもあった。
何故このことを述べたかと言えば、水曜会こそが私を「頂門の一針」と渡部亮治郎氏に結びつける切っ掛けとなったからだ。回りくどい話になるが、暫くご辛抱願いたい。
2005年の5月29日に我々1955年度卒業生の卒業50周年を祝う式典が上智大学で催された。式典後のパーティーの司会役を務めたのが、篠宮良幸氏だった。彼の説では彼と私は49年間会っていなかったそうだ、お互いの就職先は承知していたが。私の記憶では卒業後に参加したサッカー部の合宿で会っていたようだったが、それが何時だったかの記憶はない。
そのパーティーの中締めのスピーチを司会者は49年も会っていなかった私を指名してきたのだった。突然のことで勿論準備も何も出来ていなかったのだが、その時は既に静岡放送のラジオコメンテーターを10年も経験していたし、業界で「アメリカからの輸入紙恐るるに足らず」という意味で「日米企業社会の文化比較論」の講演を依頼されて方々で語っていたので、何とか切り抜けることが出来た。
すると、その直ぐ後で篠宮氏から自らが主宰する会合で一席語って欲しいとの依頼があった。またまた突然のことだが、快く承って言うなれば語り慣れた主題である「日米企業社会の文化比較論」を手短に語ってみた。するとアルコールを受け付けない体質の私にその二次会にも参加を要望され、その席上で私の正面に座られたのが渡部亮治郎氏のNHKからの盟友である故大谷英彦氏と水曜会の陰の幹事役RS氏だった。そこで意気投合しEmailでの意見交換やB級グルメの会などが始まった。
その意見交換の中で、大谷氏は私が「禁無断転載・転送」と断り書きが付けておいたにも拘わらず「面白かったから」と評価されて渡部亮治郎氏に転送され、頂門の一針にも掲載されてしまった。私はその頃(1995中か)は頂門の一針の存在すら知らず、掲載されたことも当然関知していなかった。だが、何方からか記憶は「出ていましたね」と教えられ、大谷氏に猛抗議をしたが、相手にされず「一旦発表したものがどうなろうと苦情を言うな」と反撃された。
そこで振り上げた拳を下ろすところがなくなって、今度は渡部亮治郎氏にも苦情と抗議の電話をしたように記憶している。その電話会談がどう決着したかも覚えていないが、何故か「これからは投稿させて頂きます」ということになって今日に至っているのだ。
長い前置きになってしまったが、この辺りが渡部亮治郎氏が「貴方の文章はジャーナリストのそれではない」と指摘されることなのだろう。私がここで申し上げたいことは、篠宮良幸氏がパーティーで中締めを依頼された為に運命が歯車が静かな音を立てて回り始め、遂には頂門の一針の「常連の投稿者」と読者の方から指摘されるようになってしまった「ご縁」にまで発展していった点なのだ。
昨夜も水曜会の席上で雑誌「全貌」の編集者だった篠宮氏の「編集者のカン」が49年間何をしていたのかも知らない私を指名したのかと語りかけたが、彼は否定も肯定もしなかった。この「カン」の件は1990年4月に紙パルプ業界専門出版社の編集長が突如として私にエッセー連載の執筆を依頼してこられたのは何故かと総編集長に尋ねた際に「具体的な根拠はないでしょうが、恐らく彼の「編集者のカン」が働いたのでしょう」と答えられたことに基づいている。
何れにせよ、私の84年の人生には、このような到底予測することなで出来るはずもなかったような「運」と「縁」に大きな影響を受けていたのは間違いないことだった。アメリカの会社に転身してしまったのも全く予想だにしていなかった運命と縁だった。その、向こうから私に向かってくる運をどのように受け止めて「良縁」に結びつけていくかに人生の微妙に難しい点があると思っている。しかし、私には未だに上手く受け止めていたのか、最大限に展開出来ていたか否かは不明なのである。
今、目前に迫ってきた出来事が「運命」なのか「縁」なのかを間違いなく判断して受け入れて、自分に都合が良いように活用出来れば、人生は幸せなものになるだろうとは思うが。
19日に篠宮良幸氏が主催する水曜会の最終回が開催された。即ち、篠宮氏が長年続けてきたこの会合が終わりを告げたのだ。彼が会の継続を諦めた最大の理由は、彼が近年何度か骨折となる負傷をした為に万全な体調の維持が難しくなったことと私は解釈している。それに彼は既に85歳である。昨日は最終回に私も参加して会長・篠宮氏のご要望に応えて拙い惜別の辞を述べてきた。因みに、彼と私は同じ学部の同じ専攻科だったし、サッカー部の仲間でもあった。
何故このことを述べたかと言えば、水曜会こそが私を「頂門の一針」と渡部亮治郎氏に結びつける切っ掛けとなったからだ。回りくどい話になるが、暫くご辛抱願いたい。
2005年の5月29日に我々1955年度卒業生の卒業50周年を祝う式典が上智大学で催された。式典後のパーティーの司会役を務めたのが、篠宮良幸氏だった。彼の説では彼と私は49年間会っていなかったそうだ、お互いの就職先は承知していたが。私の記憶では卒業後に参加したサッカー部の合宿で会っていたようだったが、それが何時だったかの記憶はない。
そのパーティーの中締めのスピーチを司会者は49年も会っていなかった私を指名してきたのだった。突然のことで勿論準備も何も出来ていなかったのだが、その時は既に静岡放送のラジオコメンテーターを10年も経験していたし、業界で「アメリカからの輸入紙恐るるに足らず」という意味で「日米企業社会の文化比較論」の講演を依頼されて方々で語っていたので、何とか切り抜けることが出来た。
すると、その直ぐ後で篠宮氏から自らが主宰する会合で一席語って欲しいとの依頼があった。またまた突然のことだが、快く承って言うなれば語り慣れた主題である「日米企業社会の文化比較論」を手短に語ってみた。するとアルコールを受け付けない体質の私にその二次会にも参加を要望され、その席上で私の正面に座られたのが渡部亮治郎氏のNHKからの盟友である故大谷英彦氏と水曜会の陰の幹事役RS氏だった。そこで意気投合しEmailでの意見交換やB級グルメの会などが始まった。
その意見交換の中で、大谷氏は私が「禁無断転載・転送」と断り書きが付けておいたにも拘わらず「面白かったから」と評価されて渡部亮治郎氏に転送され、頂門の一針にも掲載されてしまった。私はその頃(1995中か)は頂門の一針の存在すら知らず、掲載されたことも当然関知していなかった。だが、何方からか記憶は「出ていましたね」と教えられ、大谷氏に猛抗議をしたが、相手にされず「一旦発表したものがどうなろうと苦情を言うな」と反撃された。
そこで振り上げた拳を下ろすところがなくなって、今度は渡部亮治郎氏にも苦情と抗議の電話をしたように記憶している。その電話会談がどう決着したかも覚えていないが、何故か「これからは投稿させて頂きます」ということになって今日に至っているのだ。
長い前置きになってしまったが、この辺りが渡部亮治郎氏が「貴方の文章はジャーナリストのそれではない」と指摘されることなのだろう。私がここで申し上げたいことは、篠宮良幸氏がパーティーで中締めを依頼された為に運命が歯車が静かな音を立てて回り始め、遂には頂門の一針の「常連の投稿者」と読者の方から指摘されるようになってしまった「ご縁」にまで発展していった点なのだ。
昨夜も水曜会の席上で雑誌「全貌」の編集者だった篠宮氏の「編集者のカン」が49年間何をしていたのかも知らない私を指名したのかと語りかけたが、彼は否定も肯定もしなかった。この「カン」の件は1990年4月に紙パルプ業界専門出版社の編集長が突如として私にエッセー連載の執筆を依頼してこられたのは何故かと総編集長に尋ねた際に「具体的な根拠はないでしょうが、恐らく彼の「編集者のカン」が働いたのでしょう」と答えられたことに基づいている。
何れにせよ、私の84年の人生には、このような到底予測することなで出来るはずもなかったような「運」と「縁」に大きな影響を受けていたのは間違いないことだった。アメリカの会社に転身してしまったのも全く予想だにしていなかった運命と縁だった。その、向こうから私に向かってくる運をどのように受け止めて「良縁」に結びつけていくかに人生の微妙に難しい点があると思っている。しかし、私には未だに上手く受け止めていたのか、最大限に展開出来ていたか否かは不明なのである。
今、目前に迫ってきた出来事が「運命」なのか「縁」なのかを間違いなく判断して受け入れて、自分に都合が良いように活用出来れば、人生は幸せなものになるだろうとは思うが。
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