政府が企画した通りには事が進まない:
貸しビルの所有者は言う:
居酒屋等の小規模の個人営業(と言っても、法人化されているところが多いようだが)の飲食業の経営者が言うには「お客の来店が半減どころか壊滅状態では家賃も払えなくなるので、支払いを繰り延べて貰えれば」と真剣に訴え、政府も対応策を講じるするような報道があった。だが、貸しビルの所有者は「それは成り立たない」と言って抗議していた。理由は明快で「我々は借入金でその建物を建設したのだ。毎月の家賃が入って来なくなれば、倒産の危機に瀕するのは我々の方だ。政府の援助が欲しいのは我々も同じ」と苦境を訴えていたのだった。尤もだと思った。
私にはマスコミの報道の仕方が「政府の自粛の要請により時間を短縮して営業するか、流行り言葉の“苦渋の決断”か“断腸の思い“で閉店した飲食業者に同情が集まるような方向に仕向けているか」の如くに聞こえてならない。まさか、全ての貸しビル業者が金融機関に毎月借り入れた建設費を返済しているとは思えないが、マスコミのこの件の扱い方が飲食業中心に傾いているのではなかったかと思っている。言ってみれば「感情論」に流れているということ。
貸し出す窓口は銀行等の金融機関だ:
この新型コロナウイルスの蔓延によって引き起こされた不況対策として、政府は中小企業に対する無利子無担保の貸し出しを提案していた。この話を聞いた時に、偶々某市中銀行の出身の級友と電話会談することがあったので「何がどう決まろうと、貸し出すのは銀行になるのではないのか。その際に銀行は政府がそう匂わせているように、如何なる経営状態の企業にも貸し出すのか。銀行としての通常の審査をした上では、貸せない場合もあるのでは」と尋ねてみた。答えは「貸せない場合が出てくるのだろう」断定したのだった。
少し時代を戻して何時の頃だったか、1990年代の末期だったか「銀行の貸し渋り」を厳しく批判したり非難されたことがあった。その頃に偶々日本銀行の月報の英語版を読む機会があった。そこには「貸し渋り」が“cautious lending”と表記されていたのを見て「なるほど、上手いことを言うものだ」と感心していた。その直後に、銀行員と結婚していた従姉妹の夫妻と語り合う場があった。夫の方に「貸し渋りを非難する輿論のようなものは不当ではないのか。誤りではないか」と問いかけてみた。
彼は「善くぞ訊いてくれた」というような表情で「銀行は慈善事業ではない。融資の依頼には審査を尽くして、貸出先を選別するのは当然である。日銀が表現したように“cautious”であるのも当然で、非難されるのは心外だ」と、親戚だからこそ率直に語ってくれた。私は言うなれば誰の味方でもないので、銀行側の方針がどうのとか、融資を申し込む方の肩を持とうとか言う考え方は出来ない。ただ何となく「銀行という企業は損な役回りになってしまうのかな」と感じながら聞いていた。目下マイナス金利とやらで苦労しているようだが、この際は余り固いことを言わないでも良くはないかと思ったりもする。
週刊新潮には「精神科医の和田秀樹氏が経営しておられる企業2社が経営不振か赤字なのでこの『無利子・無担保融資』を申し込まれたそうだが、金融機関からは融資を拒否されたと怒っておられる」との記事があった。“cautious”はジーニアス英和辞典には「〈人が〉[物・事について/・・・することに]注意深い、用心深い、慎重である」となっている。銀行以外の事業会社でも、営業担当者は得意先の信用限度の管理には常に十分以上に神経を使って注意深く管理するものだ。
貸しビルの所有者は言う:
居酒屋等の小規模の個人営業(と言っても、法人化されているところが多いようだが)の飲食業の経営者が言うには「お客の来店が半減どころか壊滅状態では家賃も払えなくなるので、支払いを繰り延べて貰えれば」と真剣に訴え、政府も対応策を講じるするような報道があった。だが、貸しビルの所有者は「それは成り立たない」と言って抗議していた。理由は明快で「我々は借入金でその建物を建設したのだ。毎月の家賃が入って来なくなれば、倒産の危機に瀕するのは我々の方だ。政府の援助が欲しいのは我々も同じ」と苦境を訴えていたのだった。尤もだと思った。
私にはマスコミの報道の仕方が「政府の自粛の要請により時間を短縮して営業するか、流行り言葉の“苦渋の決断”か“断腸の思い“で閉店した飲食業者に同情が集まるような方向に仕向けているか」の如くに聞こえてならない。まさか、全ての貸しビル業者が金融機関に毎月借り入れた建設費を返済しているとは思えないが、マスコミのこの件の扱い方が飲食業中心に傾いているのではなかったかと思っている。言ってみれば「感情論」に流れているということ。
貸し出す窓口は銀行等の金融機関だ:
この新型コロナウイルスの蔓延によって引き起こされた不況対策として、政府は中小企業に対する無利子無担保の貸し出しを提案していた。この話を聞いた時に、偶々某市中銀行の出身の級友と電話会談することがあったので「何がどう決まろうと、貸し出すのは銀行になるのではないのか。その際に銀行は政府がそう匂わせているように、如何なる経営状態の企業にも貸し出すのか。銀行としての通常の審査をした上では、貸せない場合もあるのでは」と尋ねてみた。答えは「貸せない場合が出てくるのだろう」断定したのだった。
少し時代を戻して何時の頃だったか、1990年代の末期だったか「銀行の貸し渋り」を厳しく批判したり非難されたことがあった。その頃に偶々日本銀行の月報の英語版を読む機会があった。そこには「貸し渋り」が“cautious lending”と表記されていたのを見て「なるほど、上手いことを言うものだ」と感心していた。その直後に、銀行員と結婚していた従姉妹の夫妻と語り合う場があった。夫の方に「貸し渋りを非難する輿論のようなものは不当ではないのか。誤りではないか」と問いかけてみた。
彼は「善くぞ訊いてくれた」というような表情で「銀行は慈善事業ではない。融資の依頼には審査を尽くして、貸出先を選別するのは当然である。日銀が表現したように“cautious”であるのも当然で、非難されるのは心外だ」と、親戚だからこそ率直に語ってくれた。私は言うなれば誰の味方でもないので、銀行側の方針がどうのとか、融資を申し込む方の肩を持とうとか言う考え方は出来ない。ただ何となく「銀行という企業は損な役回りになってしまうのかな」と感じながら聞いていた。目下マイナス金利とやらで苦労しているようだが、この際は余り固いことを言わないでも良くはないかと思ったりもする。
週刊新潮には「精神科医の和田秀樹氏が経営しておられる企業2社が経営不振か赤字なのでこの『無利子・無担保融資』を申し込まれたそうだが、金融機関からは融資を拒否されたと怒っておられる」との記事があった。“cautious”はジーニアス英和辞典には「〈人が〉[物・事について/・・・することに]注意深い、用心深い、慎重である」となっている。銀行以外の事業会社でも、営業担当者は得意先の信用限度の管理には常に十分以上に神経を使って注意深く管理するものだ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます