外国人を驚かす我が国の時間励行:
昨13日のmag2のTrip Editorに「我が国を訪れた外国人たちが鉄道の運行時間の正確さに驚かされる」とあったのをサッと読んだだけだった。だが、これが頭の中の何処か片隅にでも残っていたのか、昨夜見た夢の中では「電車が遅れて得意先との重要な会談に遅れそうで悩んでいる」状態だった。日頃から時間厳守で知られている自分が遅刻したらどうしようと思っていたら、目が覚めたのだった。
確かに、私の時間厳守W社の中でも広く知られていた。それと言うのも、アメリカ人たちは punctual等という単語があるにも拘わらず、約束した時刻に現れないことなどはごく普通の現象であって「これでも彼らはビジネスマンなのか」と疑わせるほどだった。そこで、アメリカ人というか白人たちの「時間の観念」を考察してみようと思うに至った。
先ず、「私が何故時間厳守を座右の銘にするようになったのか」を振り返ってみよう。そこには、確かにA型が大きな要素であるとは思うが、全く他動的な理由があった。それは、昭和26年4月から小田急線の鵠沼海岸駅から、絶対に8時30分からの講義開始時間に遅れることが許されない四ツ谷駅前の上智大学まで通学することになったからだ。迂闊にも入学するまでは、それほど校則が厳格であるとは全く知らなかったのだった。
しかも、教授である神父様の中には遅れて教室に入ることを許さず、有無を言わせずに欠席としてしまう方もおられたのだ。規則では欠席が年間の講義の時間の3分の1を超えると、自動的に試験を受ける資格を失うので、必須科目であれば自動的に留年となると定められていた。その8時30分を厳守する為には、東海道線藤沢駅を7時2分の列車(当時は湘南電車ではなかった)に乗れないと間に合わないので、朝寝坊などは絶対に出来なかったのだ。この校則に4年間も忠実に従えば、自ずとA型としては嫌でも「時間厳守」も身に付く訳だった。
その上に昭和30年から就職してみれば、会社にも厳格な「遅刻」を許さない制度があった。ここは何故か記憶は曖昧だが、確か「遅刻3回で有給休暇1日を失う」との罰則があったのだった。幸いにして会社は有楽町駅前だったから、四谷よりも条件は緩和されたが、藤沢市鵠沼からの通勤は決して楽なことではなく、大学の頃に身につけて「遅刻しない」との習性には大いに助けられたものだった。
そして、1972年8月からアメリカの会社に転進してしまった。最初のM社では、それほど「遅刻」に対する文化の違いには気が付かなかった。だが、生まれて初めて出向くことになったアメリカ行きのPANAMのサンフランシスコ行きの便は大幅に遅れて、アトランタへの乗り継ぎ便に間に合わず、4時間も馴れないアメリカの空港内を彷徨うことになった。我が国の国鉄と比較すれば、考えられない好い加減な運行振りだと思った。
だが、1975年3月からのW社では、そこには文化の相違があるようだと気が付いたのだった。W社の社風がそういう大雑把なものだというのではなく、私が発見したことはアメリカのビジネスマンたちは「時間とは自分で決めるものであって、他人が決めた規則に従うものではない」と思っていると解ってきたのだった。即ち、彼らは「個人の主体性を重んじて行動しており、時間は自分のものであって、自分の都合が良いように管理して良いのだ」という環境で育ってきたのだった。
極言すれば「自分が中心でこの世は回っているのだから、他人の介入などは認めない」とでもなるかも知れない。現に、私のW社での最初のボスの日本式に言えば営業部長は、内規では一応「勤務時間は朝8時から午後5時まで」との枠が定められているが、絶対に9時前には出てこなかったし、上司である副社長も何も言わなかった。それ以上に驚かされたことがあった。それは、ボスが秘書さんに書類のコピーを取ってくれと午後3時に依頼したら平然として「本日は閉店につき、ご自分で」と告げて、タイプライターにカバーを掛けて“See you later.”と帰ってしまったことだった。
しかしながら、会議の開始や終了は予告された時間通りであり、遅刻する者などはいなかった。即ち、そういう決め事には従うが、個人の能力を主体にして事業が運営されている以上、各部員の勤務(出勤)時間はそれぞれが仕事の進捗状況に合わせて管理していれば良いという文化なのである。しかも、部員全部がそれぞれの「職務内容記述書」に従って動いているので、誰とも仕事の内容が重複しないから、我が国のように「朝は9時までに全員が集まって、一斉に業務に取りかかる」事など夢にも考えていないのだ。
こう言う文化と思考体系の中で動いている者たちの集団であるから、時間外の昼食や夕食の待ち合わせなどには、全く悪びれた様子もなく遅れてくる。それは「時間は自分の物であるから、必ずしも他人の都合に合わせる必要はない」と思っているのだから。それに一々腹を立てていたら、アメリカ人の世界では暮らしていられないだろうと思うし、それに馴れるまでには、ある程度の年月が必要だった。
時間を厳守しないという点では北欧が誇る世界的な多国籍企業の日本法人の幹部たちは凄かった。アメリカやらやって来た我が方の副社長でも誰でも30分程度は当たり前のように待たせた。理由は「多忙だったから」だった。ある時、JRでやってきても1時間半はかかる地方の工場長が同社が指定した会談の時刻よりも3分も早く会議室に入ってきて、我々の顔を見渡して“Sorry, I am 3 minutes earlier than the time.”と言って、全員を笑いの渦に巻き込んだ。彼らは時間を励行していないと承知していたのだった。
先ほどは今はなくなったPANAMの例を挙げたが、本社に最も近いシアトルには当時はNorthwestしか便がなかった。それも1970年代は全く運行時間は頼りにならなかった。そこを捉えて“Northworst“などと呼ばれていた。だが、何時から変わったか気が付かなかったが、ノースウエストは“On time departure and arrival”をモットーとするようになって、完璧と言って良いほど時間励行になっていた。それが、我が国の交通機関に倣ったのかどうか知らないが、実に頼りになった。言ってみれば「やれば出来るじゃないか」なのだ。
もう既にアメリカ人のビジネスの世界から離れて27年なので、彼らが我が国の文化に合わせて「時間厳守」や「時間励行」に変わったかどうかは知らない。だが、彼らの「個人の主体性の尊重の文化」はそう簡単には変わるとは考えられないのだ。
昨13日のmag2のTrip Editorに「我が国を訪れた外国人たちが鉄道の運行時間の正確さに驚かされる」とあったのをサッと読んだだけだった。だが、これが頭の中の何処か片隅にでも残っていたのか、昨夜見た夢の中では「電車が遅れて得意先との重要な会談に遅れそうで悩んでいる」状態だった。日頃から時間厳守で知られている自分が遅刻したらどうしようと思っていたら、目が覚めたのだった。
確かに、私の時間厳守W社の中でも広く知られていた。それと言うのも、アメリカ人たちは punctual等という単語があるにも拘わらず、約束した時刻に現れないことなどはごく普通の現象であって「これでも彼らはビジネスマンなのか」と疑わせるほどだった。そこで、アメリカ人というか白人たちの「時間の観念」を考察してみようと思うに至った。
先ず、「私が何故時間厳守を座右の銘にするようになったのか」を振り返ってみよう。そこには、確かにA型が大きな要素であるとは思うが、全く他動的な理由があった。それは、昭和26年4月から小田急線の鵠沼海岸駅から、絶対に8時30分からの講義開始時間に遅れることが許されない四ツ谷駅前の上智大学まで通学することになったからだ。迂闊にも入学するまでは、それほど校則が厳格であるとは全く知らなかったのだった。
しかも、教授である神父様の中には遅れて教室に入ることを許さず、有無を言わせずに欠席としてしまう方もおられたのだ。規則では欠席が年間の講義の時間の3分の1を超えると、自動的に試験を受ける資格を失うので、必須科目であれば自動的に留年となると定められていた。その8時30分を厳守する為には、東海道線藤沢駅を7時2分の列車(当時は湘南電車ではなかった)に乗れないと間に合わないので、朝寝坊などは絶対に出来なかったのだ。この校則に4年間も忠実に従えば、自ずとA型としては嫌でも「時間厳守」も身に付く訳だった。
その上に昭和30年から就職してみれば、会社にも厳格な「遅刻」を許さない制度があった。ここは何故か記憶は曖昧だが、確か「遅刻3回で有給休暇1日を失う」との罰則があったのだった。幸いにして会社は有楽町駅前だったから、四谷よりも条件は緩和されたが、藤沢市鵠沼からの通勤は決して楽なことではなく、大学の頃に身につけて「遅刻しない」との習性には大いに助けられたものだった。
そして、1972年8月からアメリカの会社に転進してしまった。最初のM社では、それほど「遅刻」に対する文化の違いには気が付かなかった。だが、生まれて初めて出向くことになったアメリカ行きのPANAMのサンフランシスコ行きの便は大幅に遅れて、アトランタへの乗り継ぎ便に間に合わず、4時間も馴れないアメリカの空港内を彷徨うことになった。我が国の国鉄と比較すれば、考えられない好い加減な運行振りだと思った。
だが、1975年3月からのW社では、そこには文化の相違があるようだと気が付いたのだった。W社の社風がそういう大雑把なものだというのではなく、私が発見したことはアメリカのビジネスマンたちは「時間とは自分で決めるものであって、他人が決めた規則に従うものではない」と思っていると解ってきたのだった。即ち、彼らは「個人の主体性を重んじて行動しており、時間は自分のものであって、自分の都合が良いように管理して良いのだ」という環境で育ってきたのだった。
極言すれば「自分が中心でこの世は回っているのだから、他人の介入などは認めない」とでもなるかも知れない。現に、私のW社での最初のボスの日本式に言えば営業部長は、内規では一応「勤務時間は朝8時から午後5時まで」との枠が定められているが、絶対に9時前には出てこなかったし、上司である副社長も何も言わなかった。それ以上に驚かされたことがあった。それは、ボスが秘書さんに書類のコピーを取ってくれと午後3時に依頼したら平然として「本日は閉店につき、ご自分で」と告げて、タイプライターにカバーを掛けて“See you later.”と帰ってしまったことだった。
しかしながら、会議の開始や終了は予告された時間通りであり、遅刻する者などはいなかった。即ち、そういう決め事には従うが、個人の能力を主体にして事業が運営されている以上、各部員の勤務(出勤)時間はそれぞれが仕事の進捗状況に合わせて管理していれば良いという文化なのである。しかも、部員全部がそれぞれの「職務内容記述書」に従って動いているので、誰とも仕事の内容が重複しないから、我が国のように「朝は9時までに全員が集まって、一斉に業務に取りかかる」事など夢にも考えていないのだ。
こう言う文化と思考体系の中で動いている者たちの集団であるから、時間外の昼食や夕食の待ち合わせなどには、全く悪びれた様子もなく遅れてくる。それは「時間は自分の物であるから、必ずしも他人の都合に合わせる必要はない」と思っているのだから。それに一々腹を立てていたら、アメリカ人の世界では暮らしていられないだろうと思うし、それに馴れるまでには、ある程度の年月が必要だった。
時間を厳守しないという点では北欧が誇る世界的な多国籍企業の日本法人の幹部たちは凄かった。アメリカやらやって来た我が方の副社長でも誰でも30分程度は当たり前のように待たせた。理由は「多忙だったから」だった。ある時、JRでやってきても1時間半はかかる地方の工場長が同社が指定した会談の時刻よりも3分も早く会議室に入ってきて、我々の顔を見渡して“Sorry, I am 3 minutes earlier than the time.”と言って、全員を笑いの渦に巻き込んだ。彼らは時間を励行していないと承知していたのだった。
先ほどは今はなくなったPANAMの例を挙げたが、本社に最も近いシアトルには当時はNorthwestしか便がなかった。それも1970年代は全く運行時間は頼りにならなかった。そこを捉えて“Northworst“などと呼ばれていた。だが、何時から変わったか気が付かなかったが、ノースウエストは“On time departure and arrival”をモットーとするようになって、完璧と言って良いほど時間励行になっていた。それが、我が国の交通機関に倣ったのかどうか知らないが、実に頼りになった。言ってみれば「やれば出来るじゃないか」なのだ。
もう既にアメリカ人のビジネスの世界から離れて27年なので、彼らが我が国の文化に合わせて「時間厳守」や「時間励行」に変わったかどうかは知らない。だが、彼らの「個人の主体性の尊重の文化」はそう簡単には変わるとは考えられないのだ。
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